東日本大震災から3年4カ月。時間は前に着実に進んでいます。
震災の時、避難した人たちは避難所で多くの人に命を助けられました。
避難者の命を救ってくれたお一人が、気仙沼市鹿折地区で配食サービスを営んでいる「気仙沼給食センター」の生駒和彦さんです。
生駒さんは、津波火災で大きな被害を受けた鹿折地区中心部に開設された避難所に、震災発生の日の夜から「おむすび」などを届けました。
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東日本大震災の発生した、平成23年3月11日。小雪が降り冷たい風の吹く寒い夕方、津波から着の身着のままで小高い場所にある鹿折中学校へkaiiも避難していました。
津波で発生した火災が延焼し地区の中心部からは大きな爆発音がしていました。
避難していた多くの人たちは不安な夜を過ごしていました。
そんな夜の9時すぎ、私たち避難者のもとに小さな「おむすび」が届きました。
いのちのおむすびを復元してみました (平成26年7月撮影) |
避難先の中学校の先生が、「これから気仙沼給食センターさんが届けてくださったおむすびを配ります」
「子ども、お年寄り、そして皆さんに配りますので順番に並んでください。皆さんに行き渡る数があるかどうか分かりませんが慌てないで並んでください」
その声に避難所に避難していた人たちからどよめきが起こりました。
配られた「おむすび」は赤ちゃんのこぶしほどの大きさでしたが、かすかな温かさがありました。
ラジオが伝える惨酷な現実と夜空を照らし燃え続ける火事の火と大きな爆発音。
生きることに不安を感じていた避難者にはかけがえのない贈り物でした。
混乱した状況が続く中「おむすび」は翌日もその翌日も朝と夕方に届けらました。
長い行列に並んで手にする「おむすび」が「生きる力」をくれました。
お米はどうしているんだろう?
水はどこから?
ガスは?
毎日届くおむすびを受け取るたびに、感謝と心配が募りました。
「給食センターさんが、ガスと米が切れるまでご飯を届けてくれるそうです」
震災から3日目の朝、避難所になっていた中学校の先生が避難者に伝えました。
kaiiは震災発生以来、避難所から家に戻るまでの5日間、生駒さんの届けてくれた「おむすび」に力をもらいました。
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震災の日、生駒さんは経営する「気仙沼給食センター」で仕事中に、大きな揺れを感じました。
家族の無事はすぐに確認できましたが、気仙沼市栄町の自宅に戻ることはできませんでした。
大きな揺れの後、襲ってきた津波が、気仙沼湾に注ぐ鹿折川を逆流し工場の近くまで押し寄せましたが、幸い工場は難を逃れました。
鹿折川の中流にある「気仙沼給食センター」 |
大きな揺れが少し落ち着いて、工場の駐車場から気仙沼湾の方向を見ると自宅のある方向に火の手が上がっていました。周囲の状況を見るだけでも尋常でないことは察しがつきました。
夕方になり地震の揺れが少し落ち着いてから、工場を出て鹿折地区内のお寺や学校などを回ると、多くの人が着の身着のままで避難し混乱していました。
親戚や知人の消息を確認するために、工場から1.2kmほど離れた、鹿折中学校を目指しました。
鹿折中学校の体育館に避難している人がたくさんいることを、津波火災の明るさがぼんやり照らし出しました。
「水はある。米もある。子どもたちや困っている人にご飯を届けよう」
生駒さんは、工場に引き返し、プロパンガスの点検をし、震災の数日前に10kgの袋で60袋仕入れていた米で「炊き出し」を始めました。
大きな余震が起きるたびにガスが止まり、ご飯はなかなかうまく炊くことができませんでした。
芯の残ったご飯はお粥にし、上手に炊けたご飯で子どもたちが多く避難している避難所に「おむすび」を届けました。
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気仙沼市中みなと町に住んでいた70代の老夫婦が、鹿折中学校の避難所に震災当日から2カ月間避難していました。
今は仮設住宅で暮らすそのご夫婦が、震災当日に生駒さんが避難所に運んでくれた「おむすび」と避難所の夜の話をしてくれました。
震災の時、奥さんは(70)は鹿折地区の中心部。スーパーマーケットや酒屋などが近くにある中みなと町の自宅にいました。ご主人は近所に散歩に出掛けていました。
震災の時のことを奥さんが話してくださいました。
「大きな揺れに驚いて家の玄関を開けると、更に大きな地震が家を揺らしました。大きな揺れが続いている中を主人が家に戻ってきました。『津波警報発令』の放送を聞いて、とにかく着の身着のままで鹿折中学校を目指して逃げました。」
「やっと中学校に着くと『津波だ』『大きいぞ』という声が聞こえました。あちらこちらで火の手が上がるのが見えました。」
「中学校の体育館が避難所として解放されてから体育館の中に入ってもドアが開かれたままでとても寒かったです。心細さと空腹と恐怖の中で一夜を過ごすことになりました。『早く夜が明けないかな』と願うだけでした。
「その時、中学校の先生の『おむすびを配ります』という声が聞こえました。小さなおむすびでしたが、頂いた時のかすかなぬくもりは今でも忘れることができません。本当にありがたかったです。」
このご夫婦はのちに、この「おむすび」を届けてくれたのが生駒さんであることを知ったそうです。
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震災から3年4カ月に過ぎて、kaiiもやっと生駒さんに「おむすび」のお礼を言うことができました。
当日、鹿折中学校の体育館には、数百人の人が避難していました。
生駒さんが届けてくれた、強い思いの込められた「いのちおむすび」は津波で絶望的な思いをしていた多くの人の生きる力になりました。
「あの時は、何も考えなかったのっさ。家は弁当屋だから米があったし水もあった。プロパンガスだったので調理もできた。工場が無事だったからできたのっさ」
震災直後から避難所に「いのちのおむすび」を届け続けた生駒和彦さん |
「ただ困っている人がいるから、当たり前だと思って『おむすび』を届けたのっさ。困っている人がいれば行動するのが当たり前なんだと思う」と生駒さんは話します。
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避難者に「いのちのおむすび」を届けていた生駒さんも、鹿折地区の中心部にあった自宅を津波で失いました。
生駒さん自身も大変な状況の中で、ご家族と共に避難所にいる人たちに「いのちのおむすび」を届けてくれた生駒さん。彼の勇気と行動に心から感謝しています。
「困っている人がいれば行動するのが当たり前」その言葉がとても印象に残りました。
(後編に続きます)
2014年7月25日 金曜日
困っている人がいれば行動するのが当たり前[後編](気仙沼市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/07/blog-post_25.html
(取材日 平成26年6月23日)