こんにちは、ザーリャです。
4/3、仙台市で、ある講演会が開かれました。
「震災後の文学~仙河海市の物語を通して」。
私が手にしたその案内には、ジーンズ姿でたたずむ長髪の男性が写っています。
http://www.nissenren-sendai.or.jp/campaign/kumagai2014.html
男性の名前は熊谷達也(くまがい たつや)氏。
仙台市で生まれ、仙台に在住する直木賞作家です。
熊谷達也さん 写真提供:荒蝦夷(あらえみし) |
熊谷さんは、作品「漂泊の牙」(集英社文庫)で新田次郎文学賞を、「邂逅の森」(文春文庫)で山本周五郎賞と直木賞を同時受賞されています。
東日本震災後の作品として「光降る丘」(角川書店)、「烈風のレクイエム」(新潮社)、「調律師」(文藝春秋)、「リアスの子」(光文社)を執筆されました。
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「漂泊の牙」(1999年 集英社文庫) |
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「邂逅の森」(2004年 文春文庫) |
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「光降る丘」( 2012 年 角川書店) |
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「烈風のレクイエム」(2013年 新潮社) |
「熊谷さんはこの震災から、何を感じているのだろう?」
さまざまなことを考えながら、冷たい小雨が降る中を会場へ向かいました。
4月3日(木)、会場は仙台駅西口にある「AER(アエル)」。
仙台駅からペデストリアンデッキで直結されている高層ビルです。
エレベーターの前は、講演に訪れた方々ですでに混雑しています。
会場では主催した株式会社日専連ライフサービスの職員の皆さんが、忙しく来場者の皆さんの受付や案内をされていました。
昼から降り続く雨にもかかわらず、講演の30分前には、すでに多くの方々が来場していました。
演台に近い前方の席は、もう埋まっています。来場者は中高年齢層の方が多い印象を受けました。
小説の感想が、いつしか自身の震災体験の話になっていました。周りの方々も、それを聞きながら黙ってうなずいています。
来場者の皆さんの雑談の中で、幾度となく、「気仙沼」という地名が交わされるのを耳にしました。
「今夜の講演会は『気仙沼』がキーワードになるのだろうか。」
そんな事を考えながら、私も大型ダンプカーが行き交っていた今年1月の気仙沼の光景を思い出していました。
主催の日専連ライフサービスの社会貢献事業の紹介があり、講演会が開会しました。(株式会社日専連ライフサービスの活動につきましては、あらためてご紹介します)
スーツ姿にビジネスバックを携えた熊谷さんが登壇し、会場は大きな拍手で包まれました。
「バイクのツーリングが趣味で、バンド活動もしている」
そんな話から抱いていた私の想像とはまるで違う、フォーマルな熊谷さんの姿でした。(私の失礼な想像でした・・・)
来場者の皆さんの雑談の中で、幾度となく、「気仙沼」という地名が交わされるのを耳にしました。
「今夜の講演会は『気仙沼』がキーワードになるのだろうか。」
そんな事を考えながら、私も大型ダンプカーが行き交っていた今年1月の気仙沼の光景を思い出していました。
主催の日専連ライフサービスの社会貢献事業の紹介があり、講演会が開会しました。(株式会社日専連ライフサービスの活動につきましては、あらためてご紹介します)
スーツ姿にビジネスバックを携えた熊谷さんが登壇し、会場は大きな拍手で包まれました。
「バイクのツーリングが趣味で、バンド活動もしている」
そんな話から抱いていた私の想像とはまるで違う、フォーマルな熊谷さんの姿でした。(私の失礼な想像でした・・・)
よく通る熊谷さんの声が響きました。
ところどころ、言葉をゆっくりとかみしめるように、立ち止まりながら、熊谷さんが震災の日をどう迎えたのかという話が始まりました。
熊谷さんは、仙台の自宅で仕事をしようとパソコンの電源を入れたところでした。
大きな縦揺れが始まり、5~6秒たってから携帯電話の緊急地震速報が鳴り始めました。
揺れは止むことなく、さらに大きくなり、やがて動くこともできなくなります。
このとき、熊谷さんは宮城県沖地震が来たと思ったそうです。
揺れが収まり、部屋を出てマンションを見渡しました。
火災等が起きていないことを確認し、「しばらくの間は自宅で過ごすことができる」と判断します。
ただ、地震に関する被害の情報は錯綜していて、正確な状況をつかむことができませんでした。
震災2日目、カーナビのテレビで映像を見ることができました。
そして今回の地震の被害が、自分の想像をはるかに超えていたことを知ります。
熊谷さんはかつて気仙沼で3年間の間、教師をしていたことがありました。
「気仙沼の人々がどうなっているのだろう?」
しかし、安否の確認の手段がありませんでした。
◆気仙沼へ
2011年4月1日 気仙沼にて 写真提供:荒蝦夷(あらえみし) |
そして初めて津波の被災地に入ります。
熊谷さんは言葉を失ったと言います。
熊谷さんは歩ける状態のところを、手あたり次第に歩いて見て回りました。
「沿岸部の被災地の状況を定期的に見なければいけない、少なくとも月に一度は回らなければ、見ていかなくては・・・」
被災地の惨状を自分の目で見て、そう思ったと言います。
しかし、その目的は、自分でもまだよくわかりませんでした。
それから、月に1回、多い時には2回、津波被災地の変わってゆく光景を見ました。
被災地に入ると、震災によって地盤が沈下し、海が大きくなったように見えます。
それがとても印象的でした。
やがて何もないところに、真新しい電柱が立ち始めました。
その先に仮設住宅があるのです。弁当を持ってゆく必要もなくなりました。
仮設商店が営業を始めたからでした。
◆訪れた危機
震災から1年半の後、風景の変化が一度止まりました。
瓦礫の撤去が終わり、何もなくなったのです。
その変わらない、何もない停滞期間がしばらく続きました。
今年に入って、ようやく復興の兆しが見えるようになりました。
しかし一方で、小さな集落は解散してしまったところも沢山あります。
高齢化、過疎化が進んでいた集落では、20、30年後に現れるだろうと考えられていた問題が、この震災で一気に加速して現れてしまったのです。
そして、精神的な危機が、自分に訪れたことを感じました。
「新しい小説が書けるのか?何も書けないな。」
仕事をしようと思っても、小説が書けなくなっていました。
小説は人の生死を描くものだと言われます。
しかし、現実に身近にあったあれだけの命が、あれだけの町が失われてしまいました。
小説はフィクションです。震災後、何を書いてみても嘘くさくなる。
どんな壮大なストーリーも、はたしてどんな意味があるのだろう?
3/31、街の中で商売が始まり、日常が戻ってきました。
みんな「日常」を取り戻すために頑張っている。
自分も「日常」を取り戻したい、小説を書く生活を取り戻したい。
しかし、実際には小説を書くだけではなく、小説を読むこともできなくなっていました。
あんなに好きだった小説を、もう読めないという喪失感。
致命的だった。
熊谷さんはそう話しました。
熊谷さんはどのようにして震災で喪失した、「小説を読むという喜び」と、「小説を書く」という日常を取り戻したのでしょうか。
(後編に続く)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_22.html
(取材日 平成26年4月3日)