宮城も春めいてまいりました。
降る光にもとろりとした温もりが感じられ、夕べの風も、今日より暖かな明日を期待させてくれます。
野山が花の色、若葉の色に埋まっていく季節も、もう目の前。
今回は、昨秋取材した「花園」のお話です。
津波で色を失ってしまった町につくられた小さな花園。
これから秋の遅い時期まで、季節の花が次々に咲き代わってまいります。
日脚も伸びたこの時期、春陽におでかけ気分をくすぐられたなら、ぜひ一度、訪ねてみてほしいと思います。
石巻市雄勝町。
国道398号の釜谷峠から雄勝の街へ。下りきった街の入り口のT字交差点で、白いガーデンフェンスに囲まれた小さな花園と、屋根をスレートで葺いた2棟の小さなレンガ造りの家に出合えます。
童話の挿絵に登場しそうなかわいいおうちがあります |
「ローズガーデンファクトリー」――。
ここは、津波によって、家もお店も学校も畑も、緑や花の色さえ奪われてしまった雄勝の街に、復興への希望の光を灯す場所。
「雄勝花物語」というプロジェクトが今、この場所で進められています。
季節の花が次々に咲き変わっていく、小さな花園です |
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雄勝町は、海明かりに森の緑が眩しく輝く、美しいリアスの海辺の街でした。
でも、3.11の津波は雄勝にも波高約20mもの大きさで襲来。
街区を飲み込み、さらに内陸深くにまで侵入してしまいました。
津波は「雄勝花物語実行委員会」の代表者である徳水利枝さんの実家をも襲い、利枝さんは、母と叔母、従弟を亡くされました。
「せめて母たちの供養のために――」。
春が深まり始めたころ、利枝さんは、実家の跡地に「ホオズキ」を植え、そして小さな花畑づくりを開始します。
ガレキさえ片付いていなかった街の一角にぽっと出現した花畑。
その、日だまりのような明るさに魅せられて、やがて多くの人たちが集いはじめました。
秋の花ですみません・・・ |
2011年秋には、花を育てる支援活動のために雄勝を訪れた千葉大学園芸学部の秋田先生と出会いました。
同学部の環境ISO学生委員会の地域支援活動のひとつとして、秋田先生と学生さんたちは利枝さんの活動に関わることとなり、花畑づくりを本格的に開始。
秋にはパンジーの苗やチューリップの球根を植えたのでした。
これが「雄勝花物語〝序章(2011年の活動)〟」です。
こちらも秋の花。でも季節ごとに訪ねたくなる場所 |
翌年の2012年3月には、花と緑の力による被災地の復興支援活動を行っている「3.11花と緑の力で3.11プロジェクト みやぎ委員会」も支援に加わってくださったのでした。
「〝このままじゃ風景が死んでしまう〟。はじめて雄勝に来たとき、そう思いました」と語るのは「みやぎ委員会」の委員長・鎌田秀夫さん。
2012年3月から、海水を被った大地にダンプカー150台分もの土を入れ、ならして花畑の造成が始まりました。
花が咲き、虫がやってきて・・・ 傷ついた自然は、少しずつ、 もとの姿を取り戻しはじめています |
「みやぎ委員会」が動いたことで、「雄勝花物語」は日本中の園芸界に一気に知られていきます。
ガーデニング誌「BISES」、ボタニカルガーデン泉緑化、石卷を花と緑で元気にする実行委員会、そして個人、企業、店舗、団体、学校、大学生ボランティア――。もちろん地元の方も多く参加されて。
こうして支援の輪はぐっと広がっていきます。
被災地復興支援に参加したい方々には、植栽や除草といった活動をお願いし、交流人口もどんどん広がっていきました。
ガレキの中の花園は、被災した人たちの心を癒し、そして多くの人たちと繋がれる場所となっていったのです。
「雄勝花物語〝第一章(2012年の活動)〟」です。
陽光の中に、今年も可憐な花がたくさん咲きます |
そして「雄勝花物語〝第二章(2013年の活動)〟はローズガーデンファクトリープロジェクト」への取り組み。
将来的には、この場所をハーブや野菜を育てる観光農園として、ジャムを作り、ワインを醸造し、雇用を創出して、雄勝の復興へと続くような活動を目指しています。
「多くの雄勝の人たちが、ここを自分の庭だと思って、畑仕事や花の世話に来てくれたらうれしく思います。懐かしい人たちがここに集って、お茶っこ飲みながら、わいわいにぎやかに過ごすことが、この付近で亡くなった方々への供養にもなると、私は思っています」(徳水利枝さん)
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「清明」が過ぎ、「穀雨」の頃には、海辺にも桜便りが届きます。
震災から4度目の春。明るい花色がたゆたう季節がまた巡ってまいりました。
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そして、花にも負けないたくさんの笑顔を、ここに咲かせてください。
(Part2に続く)
(取材日 平成25年10月13日)