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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年3月26日水曜日

2014年3月26日水曜日21:36
石野葉穂香です。

今から約1300年も昔のこと――。
奈良の平城京には律令政府「大和朝廷」が開かれ、その統治下、日本には約60余の令制国(りょうせいこく)があり、東北地方にも、奥羽山脈の東に陸奧国(むつのくに)、西に出羽国(でわのくに)という2
つの国がありました。
724年(神亀元)、大和朝廷は、現在の多賀城市に「国府多賀城」を設置。九州の太宰府と同様、「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれたそれは、11世紀の中ごろに衰退するまで、陸奧国の政治と軍事の拠点としての役割を果たしてきました。

やがて平安時代になると、風流を愛する都の人々にとって「北」はあこがれの地になっていきます。
見たこともない陸奥国の山や野や川や海に、特別な思いを寄せるようになり、陸奥国は「歌枕の地」となり、地名を詠み込んだ多くの和歌が作られました。

JR仙石線多賀城駅から徒歩約10分。住宅街の中に「末の松山」があります
多賀城市八幡地区に「末の松山」という歌枕の地があります。
小倉百人一首の四十二番、清原元輔の
「ちぎりきな かたみにそでを しぼりつつ すえのまつ松山 なみこさじとは(『後拾遺集』)」
が有名ですね。

また、
「きみをおきて あだし心を わが持たば 末の松山 波もこえなむ(『古今和歌集』)」
「うらなくも 思ひけるかな 契りしを 松より波は こえじ物ぞと(『源氏物語』)」
「あきかぜは 浪とともにや こえぬらん まだきすずしき すゑの松山(藤原親盛『千載和歌集』)」
といった歌もあり、「末の松山」の名は、多くの歌に残されています。

清原元輔の歌を刻んだ碑

ちなみに、最初に挙げた清原元輔の歌の現代語訳はこんな風になります。

「約束しましたよね。涙に濡れた着物の袖を絞りながら。末の松山を波が越すことなどあり得ないように、私たちの心も決して変わらないと」


また、他の三首にも、地名とともに「波」という言葉が登場し、「愛の契り」や「固い約束」の比喩として使われています。
どうして「末の松山」と「波」は、セットになって詠まれているのでしょうか?

「869年(貞観11)、陸奧国で大地震が発生し、多賀城の国府の側まで大津波が襲ってきました。東日本大震災のあと、しきりに語られるようになった『貞観大地震』のことです」
多賀城市の観光ボランティアガイドの柴田十一夫さんが、多賀城の歴史をひもといてくださいました。

ボランティアガイドとして活躍される柴田十一夫さん


「10世紀の初めに書かれた『日本三代実録』によると、多賀城政庁の建物は地震でつぶれ、そばにあった街も津波に飲まれて1000人以上もの人が犠牲になったとあります」
「『末の松山』は、標高10mほどの小山です。津波は、その麓まで押し寄せましたが、山を越えることはありませんでした」
「このことが都人に伝わり、『末の松山』は、決して波が越すことのない場所、契りや約束を表す言葉として詠まれるようになったのだと言われています」

 柴田さんは、震災前から観光ボランティアガイドとして活躍されていました。
メンバーは28人。以前のガイドでは、地震や津波のエピソードに大きく触れることはなかったそうです。
「多賀城政庁は、創建の40年後に大改修が行われたほか、780年に焼き討ちに遭って炎上するなど、4回建て替えられました。貞観地震で壊れた話もしますが、それは建て替えられた理由の一つとしてのお話でした。『末の松山』も〝恋歌〟にまつわる解説ばかり。でも、震災後には、地震や津波についてお話しすることが多くなりました」

背景の黒松は樹齢470年超とか。
歌枕の地らしい佳景は地元の人たちの手で守られ続けています
震災後、柴田さんは7人の仲間と「震災に学ぶ歴史の会」を結成。
あらためて過去の地震や津波被害について、市の防災担当の職員の皆さんの指導を受けながら勉強を始めました。
そして、旅行会社が企画した『多賀城市震災伝承教育プログラム』で、全国から視察に来た行政や企業関係者、建設業者、防災組合やさまざまな組織の方々のガイドを務め、東日本大震災と過去の惨禍を紹介してきました。
プログラムは昨春、終了しましたが、『歴史の会』のメンバーは今でも勉強を続けています。

解説板の後方に家並みがが広がり、2㎞ほど先には
現在の仙台新港があります。
海岸線は当時とはだいぶ変わってしまっていますが、
貞観地震津波は一説では海から7㎞も進入したとも言われています
「貞観地震の時、大和朝廷は〝復興庁〟に相当する機関を作っていたんですよ」と柴田さん。
「『陸奧国修理府』という組織です。時の清和天皇は『民がこんな災害にあってがっかりし、恥じ恐れ入る。その責任は私にある』と、使者を派遣されたのです。そして、『国民と夷(えびす=朝廷に属していない先住の人びと)を区別せず、亡くなった人はすべて棺に納めて埋葬しなさい』とおっしゃった。・・・こんなお話も、震災後のガイドではさせていただくようになりました」
 
柴田さんは「東日本大震災の記憶の風化はもう始まっている」と感じていらっしゃるそうです。
「自然災害は、日本列島のどこでも、いつだって起きるリスクがある。自分だけは大丈夫だなんて思い込むのはダメ。忘れないためにはどうすればいいか。それを真剣に考えるようになりました」
柴田さんは、震災復興の「語り部」として活動を続けています。

この日は山形県から来られたお客様方をガイドされました。
史都・多賀城の歴史と津波の記憶を、今日も語り伝えてくださいます

波が越すことのなかった「末の松山」。
恋心が永遠であるように、私たちも、震災の記憶を、永く伝えていかなければなりません。
それが、過去から受け継ぎ、次代へと伝えなければいけない、私たちの〝約束〟なのです。

(取材日 平成25年11月25日、平成26年1月24日)