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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2016年1月20日水曜日

2016年1月20日水曜日11:30
こんにちはエムです。

年末年始の行事が終わり、また日常が戻ってきました。
そういった慌ただしい中でも、折々に花を飾り季節を楽しんでいる方は多いのではないでしょうか。花は日常を彩り心を和ませてくれるものですね。

特に“母の日”はカーネーションが欠かせません。
東日本大震災で甚大な被害があった名取市は、そのカーネーションの生産では東北一を誇る地域でした。

大震災後、自力再建の進む名取市小塚原北地区で、農業から地域の再建を支えるのは、4代にわたって花卉(かき)栽培農家を営む三浦太(まさる)さんです。
三浦さん自身は3代目ですが、現在は息子の智和さんが4代目として花卉農家を継いでいます。

三浦さんが作るのは枝分かれした小型の花を付ける“スプレーカーネーション”。
右は最近作り始めたという“トルコキキョウ”

小塚原北地区・前回の記事
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ふるさと再生〜自立再建地区の取り組み(名取市)
[前編]2015年12月23日 水曜日
http://kokoropress.blogspot.jp/2015/12/blog-post_23.html

[後編]2015年12月27日 日曜日
http://kokoropress.blogspot.jp/2015/12/blog-post_85.html
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現在の三浦さんの温室

[4代続く花卉栽培農家]

昭和初期に三浦さんの祖父が始めた花作りは、当時は最先端の珍しいものでした。
米作りの副業として、所有する広い敷地を利用して始めたもので、田んぼに“せっちゅう”(保温折衷苗代)と呼ばれた温床を作って花や野菜の苗などを育てていたのだそうです。

「温床は木で枠を作り、そこに油紙をかけたものだったね。
その後、戦前には温室を作っていたよ。木造の温室で、ガラスを入れてやっていたけれど、コンクリートなど売ってない時代、祖父はどこからか探して買ってきて使っていたね。

最初はトマトやキュウリ、メロンなどを作っていて、メロンは天皇陛下に献上した頃もあった。トマトが青臭いといって売れない時代からです。それからユキヤナギとかの花を温室で育てて早めに出荷するようになり、だんだんとチューリップやユリなどの花を作るようになったんだね。
戦中はサツマイモの苗を専門に作っていたようです。

カーネーションは父親の代から作るようになった。
でも1978年の宮城県沖地震で木造の温室が壊れ、今の鉄骨アルミ温室に変わりました」

当時は1964年に開催された東京オリンピック以降の経済効果もあり、花は作れば売れた時代。その時に温室の規模を拡大して、現在の広さ(約4000平方メートル)になったのだそうです。

「でもその後から農業は、花作りも含めだんだんと厳しい時代になっていきました。
そんな時に東日本大震災になったので、尚更厳しいのが現状です」

2011年3月の様子(撮影:三浦さん)

[大震災から立ちあがる]

地震発生後、6メートルの津波が来るとの情報を得た三浦さんは、すぐさま家族に避難を指示しました。両親と妻、息子夫婦と2人の孫はワゴン車で避難。三浦さん自身も近所で昼間1人で過ごしている高齢の女性2人を車に乗せ、避難所まで逃げて無事でした。

しかし軒下の高さまで瓦礫で埋め尽くされた状態を見た時、「ここには住めない。ここでは農業はもうやれない」と考えたのだそうです。

「温室はほとんど全滅状態だったし、あの悲惨な状況を見たら誰でもそう思うんじゃないですか」

瓦礫で被われた地面を歩く三浦さん(画像提供:三浦さん)

そんな絶望に押しつぶされていた時、ボランティアとしてたくさんの人が応援に来てくれました。一生懸命瓦礫を撤去してくれている姿を見て、何とも言えない気持ちが生まれたのだと三浦さんは言います。

「自衛隊が大きな瓦礫を撤去した後、毎日50人乗りの貸切バスで全国から来てくれて、1軒1軒きれいに片付けてくれたんです。
温室の中にヘドロが8センチくらい積もっていたのも一生懸命……ねえ、手作業で取り払っていただきました。あの思いは何とも言えなかったね……感謝だっちゃねあの思いは。
今もしどこかで震災が起こったら、自分たちもやれるかっていったら、やれねえもな。だから頑張んなきゃいけない。
だから“なんとか皆さんに見ていただける良いもの作んなきゃなんね”と思うね」

その後もさまざまな団体や個人がボランティアに訪れました。
温室の中に残っていたカーネーションを5月の母の日までに切り集め、「津波に負けないカーネーション」として売ってもらったこと。
ある時は退職した校長先生や教頭先生などの学校の先生による団体が来て、残ったヘドロを撤去してもらったことなど、三浦さん始め小塚原地区の皆さんは感謝の気持ちと共に、力強い応援として心に残っているようでした。

壊れたハウスの中で津波に負けずに残っていたカーネーション
(画像提供:三浦さん)

三浦さんや地元農家の皆さんも、農地の瓦礫拾いで臨時収入を得ながら、「農地を少しでも早く復興させてやっぱりお米作りたい、花作りたい」とずっと考えていたと言います。
そして震災から1年後の2012年、国や宮城県、名取市からの補助金を利用して念願の農地の再建にとりかかりました。

その補助金でまず、被災した大型ビニールハウス(ハウス)の解体・修理などをし、800坪(約2700平方メートル)を再建しました。
続く2013年には宮城県仙台農業改良普及センターの指導で、ハウスの“無償リース”の話がまとまり、その年の12月に5棟、全約1000平方メートルのハウスが新たに完成。2014年から花作りが再開しました。

こうして三浦さん含め8件全ての花卉農家はなんとか再建を果たしましたが、後継者になるはずだった家族が他の仕事に就き、取りやめた方もいるのだそうです。

三浦さんのところでは息子の智和さんが継いでいますが、花卉農家の経営は大変だと三浦さんはため息をつきます。
智和さんはカーネーションだけではなく、ストックやトルコキキョウなども作って花の種類を増やすなど工夫をしていますが、震災前の総収入より30~40パーセントは減っているのが実状なのだそうです。
暖房用の灯油や農薬などの花作りに必要な経費は以前と変わらず、時にはそれ以上にかかってしまうのも苦しい理由になっています。

温室の中ではツボミが出そろったカーネーションが出番を待っていました

[農業組合法人『ファーム閖上』設立]

小塚原地区では大震災以前、ほとんどが花卉農家と水田単作農家でした。
水田単作農家では退職金を使うなどして個人で農機具を揃えていましたが、津波で流されたり壊れたりして全て使えなくなってしまったのです。
経済的な問題に加え高齢化の問題もあり、稲作農家の再建はさらに難しいものでした。

そのため考え出されたのが農地を集約化して、集団で栽培する方法です。

これは国が進める圃場整備事業を、中間管理機構(宮城県では公益財団法人 みやぎ農業振興公社)を通して行う事業を受け入れることで、各地域ごとに組織を作らなければなりません。

小塚原北地区では三浦さんが中心となり、「農事組合法人 ファーム閖上」を立ち上げました。国からの無償リースで、施設・農機具・ハウスが揃い、落成式が行われたのは2014年10月10日でした。

「2015年からやっと米の栽培が始まりました」

「事務所」兼「乾燥調整室(ライスセンター)」
育苗用ハウス。総面積700坪(約2000平方メートル)

「ファーム閖上」のメンバーは5人。
普段はその人数で作業はまかなえますが、田植えと稲刈りの農繁期には地域の方を臨時雇用として雇い、10人体制で行います。

「ファーム閖上を作った1番の理由は、離農した皆さんの雇用の場を提供できればと、地域全体のことを考えたからです」

働く方は全てが時給制です。そのため稲作の作業のない時期でも収入が得られるようにと、空いているハウスを利用して花や野菜を作る試みを始めているのです。

「少しづつ試作してみたりして、何を作っていったらいいのか、どんな形で経営をしていったらいいのか、各関係機関のアドバイスをいただきながら、いずれは独り立ちできるような組織にしたいと考えています。

メンバーは毎朝必ず、全員でコーヒーなんかを飲みながらミーティングして、それで意思疎通を図ってる。そこで話し合って、機械や作物などもみんな担当者を決めて割り振るようにしていんですが、そうすると責任感持ってやってくれるようになっからね。
ここを少しでも収入得られる場所にできればな……雇用の場を作れればな……といろいろ模索しているところだね」

ハウスでは試験的にハボタンやストックなどが栽培されでいました


「ファーム閖上の」現在のメンバーは61〜74歳の方たちです。

「我々が今やっている1番の目的は、次の世代の人たちに就農してもらうための基礎作りなんだっちゃね。
将来、携わってもらえる人が入って来れるように、どういう方向付けでやるのかの環境づくりが私らに課せられているんだね」

お米を収穫後の稲藁も「ファーム閖上」の大事な収入源。
堆肥や飼料用としてロール単位で販売しています

[今の自分を支えるもの]
「逃れられない災難は定め」と言いきる三浦さんは現在60代。「ファーム閖上」の運営の他、自宅の花作りはもちろん、地域町内会の役員を務めるなど何役もこなす、地域にはなくてはならない存在となっています。

「今まで私も皆さんのお世話になってきてるので、お返しはしなければならないと思っている。だから一生懸命努力するしかないべな。
自分は『舞台』を提供していただいたのだから、それをなんとか次の世代にバトンタッチできるようにしなきゃならない。
やってもらえない人たちだって、今なおたくさんいるからね」

91歳の太さんのお母さん。ほぼ1日置きに作業を手伝っています

奥さまの三浦清子さん

「あとは自分たちの“創意工夫と努力”だな。
そして自分が潰れてしまわないようにするには“向上心”が大事だね。
どんな仕事でもそうだと思うけど、意欲無くしたら人間は終わりだと思うな。特に感じるな……被災した人間は……それが唯一の支えかな」

「今人間は物欲が強過ぎてそれで苦しいんだな」と語る三浦太さん

「そして家族みんな、地域の人みんなして考えながら、話し合いながらやっていく中では夢も語られる。その夢を持つことが大切だね。
そしていずれ夢は実現化すると思うし、それが楽しみだっちゃね」

自力再建が進む名取市小塚原北地区で「住民の生活の面から」、そして「生活基盤となる農業の面から」立て直そうとがんばっておられる皆さんのお話をお聞きしてきましたが、特に印象に残っているのは皆さんの笑顔でした。
その皆さんが絶望の縁から立ち上がれたのは、たくさんの外部の人の協力と、地域全体で支え合っていること……。
都会では薄れている、お互いに思い、思いやる心を大事に育む“ふるさと”が小塚原北地区にはありました。

(取材日 平成25年11月24日)