header

宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

ヘッダー写真説明文

写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2015年12月14日月曜日

2015年12月14日月曜日8:41
こんにちはエムです。

晩秋の冷たい空の下に立ち並ぶ大型のビニールハウス。
でもハウスの中は小春日和の暖かさ。そこにはたくさんの種類の野菜が生き生きと育っています。
ここ仙台市若林区の二木地区は、幹線道路の両側に広がる広大な田んぼは刈り取りが終わり、所々に大型ハウスや露地栽培の畑でハクサイなどが育っているのが見えます。

のどかな日本の原風景のように感じますが、東日本大震災では約2メートルの津波が押し寄せ、この地区一帯が被災しました。


この二木地区で、環境に優しい農業「エコファーマー」の認定を受け、化学肥料や農薬をあまり使わない方法で農家を営んでいる、大内文浩さんを取材しました。
大内さんは被災した後も諦めず農業を続け、ようやく震災前の規模まで再起を果たした方です。

「一般社団法人産直広場ぐるぐる」が扱っている野菜を育てている若林区の農家の1つであり、先日ご紹介した「一般財団法人仙台YWCA」では、被災地支援として「産直広場ぐるぐる」のマルシェを毎週木曜日に開いています。

関連記事 ==========
2014年12月13日 土曜日
「産直広場ぐるぐる」のこだわりの農家(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/12/blog-post_47.html
===============
2015年11月23日 月曜日
心のケアをこれからも〜仙台YWCAの支援活動(仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2015/11/ywca.html
===============


「野菜の種類はたくさんあって
その中からおいしい品種を探しだすのが楽しいですね」

大内さんの自宅兼農地のある二木地区は、海岸から約2キロメートル内陸に位置しています。
大震災が発生し、ここまで襲いかかってきた津波は、隣接する東六郷小学校で勢いが和らげられたため、大内さんの自宅は壊れずに残りました。自身と家族は自宅の2階に逃れ、東六郷小学校にいた次女は助かりました。
一番心配だった教員の奥さまは当時、海岸から約700メートル内陸にあった荒浜小学校に勤めていました。荒浜小学校では4階建ての校舎の2階まで浸水しましたが、児童、大内さんの奥さまを含む教員、避難してきた近隣の住民合わせて320名は無事でした。

「当時はラジオで荒浜の悲惨な様子を伝えていましたので心配していました。
妻の生存が分かったのは3日後でした」

大内さん自身は、消防団として消防署に寝泊まりしながら住民の避難に手を貸し、捜索活動に参加するなどしながら、奥さまの無事を知ったのだそうです。
ホッとしたのも束の間、家族が避難所生活で体調を崩したり、大内さんは引き続き捜索活動への参加や、人のいなくなった地区の夜間パトロールなどやることは多く、瓦礫だらけの自宅や農地は手つかずのままでした。

(画像提供:大内さん)

(画像提供:大内さん)

当時、津波をかぶった土地では作物ができるまでに10年かかると言われ、農業を辞めようと思ったときもあったそうです。そして実際に農業を辞めた人もいると大内さんは言います。

しかし被災して初めて野菜を買って食べる身の上になった大内さんは、大型スーパーに行って驚きました。
そこにあったのは元気のない野菜ばかり。それは収穫から店頭に並ぶまでに、日数が経過しているからでした。

「その時、正直買いたい野菜がありませんでした。でも野菜が食べたくて、なるべく外の葉も付いたキャベツを買ってきて全部食べましたが、“自分の畑を早く再開したい” “自分の作った野菜はやっぱり直売所で販売したい” という思いにつながりました」

もう1度農業をやりたいと決心した理由は他にもあると、大内さんは教えてくれました。

「震災前に夏野菜の種を撒いていたのですが、全部流されたんです。
でもその年の6月頃、次女が敷地の中で、たまたま引っかかって残っていた育苗のポットを見つけました。見ると芽が出ていて、何本か育っていたんですよ」

左は黄色いミニトマト。右は子どもたちが食べられるようにと作っている
学校給食用の小さいサイズのパプリカ

「そして田んぼでは、海水をかぶって瓦礫に埋まった中で、ヘドロが乾いてひび割れした隙間から、草が一面緑色になるくらい生えてきたんです。
10年ダメだって言われてたのに草は生えてくるし、野菜は芽が出て育っているし、話違うな……って思った。生命力ってすごいです」

捜索活動などが修了した6月頃、大内さんはまず、幹線道路から少し奥まった自宅の敷地へ入る道を開けるため、瓦礫とヘドロの撤去を始めました。
そんな大内さんに力を貸してくれる人も現れました。

「ボランティアの人はたくさん来てくれました。
あの方たちがいなかったら復興は絶対無理でしたね。感謝しきれません……。
『チーム大内でいきます』『毎日来るからね』って言ってくれて、ずっとウチに張り付いて助けてもらいました。

力仕事ももちろん助かりましたが、ボランティアの方たちは疲れた顔もしないで、ニコニコ笑いながらみんなで仕事して帰っていくんですよ。それがすごいですね。
前向くっていうのは、そういうみんなの力があるからなんですよ。
そういう意味ではすごい恵まれていたかな……と思います」

震災後の最初の年は、1年で10年分の作業があったと語る大内さんですが、
「ちょっとしか仕事できなかった」「いや、そんなことないよ!」
「絶対また来ます」「分かった。そん時は絶対野菜食べてね」
そういったボランティアの方とのやり取りが一番力をもらえたと、大内さんは当時を懐かしむように言いました。

露地栽培の畑ではハクサイ、レタス、ニンジンなどが育っていました。
「生態系が変わりネズミが増え、ヘビはいまだに見ないね」

瓦礫とヘドロの撤去のため数十センチ削り取られてしまった農地の土を、大内さんは耕すことから始めました。
いち早く、ドイツからボランティアに駆け付けてくれたメンバーの中にいた自動車整備士が、津波を浴びて泥だらけになった機械を修理してくれたのだそうです。

「大きな機械はほとんどダメでしたが、構造が簡単な小さな機械はものによっては使うことができました。
そしてその時になって、土がこんなに貴重だったと気付きました」

瓦礫・ヘドロを撤去後、初めて耕す農地(画像提供:大内さん)

他の土地よりも低くなってしまった農地の一部に土を入れた箇所はありますが、ほとんどはそのままの状態で耕し、まず最初に植えたのがコマツナでした。

収穫できたコマツナを食べてみると、「しょっぱかった」のだそうです。
「しょっぱいということは、コマツナは塩分を吸い取ってくれるっていうことですよね。なので捨て作りのようにしてコマツナを育てました。
野菜を作れば作るほど、畑が直っていくのが分かりました」

今はハウスの中で力強く育っているコマツナ

そして震災後初年度の平成23年の秋、大内さんをはじめとする二木地区の数件の農家は、レタスを市場に卸し驚かれたと言います。

「初年度の秋までにはキャベツ、ハクサイ、大根、ニンジン、キュウリ、カボチャ、トマトなど、たくさんの種類を作りましたし、全部育ちました」

そしてもっと意外だったことがありました。
翌年の平成24年、公共整備される前の田んぼに試験的にお米を育ててみた大内さんは、その秋の豊作に驚いたそうです。

「モミ数は多いし、粒も大きかったし、すごい豊作でした。
よくよく考えたら、海水って塩分以外はミネラルなんですよね。調べてみると、作物の種類によっては、海水をかける育て方もあるようなんです」

試験的に作っているムラサキハクサイ
手前は仙台伝統ハクサイ
しかし、いまだに残っている課題もあります。
それは土の粘土質が強くなり、水はけが極端に悪くなったことだと言います。

もともと農業は天候に左右されやすいものですが、今年のような長雨、その後の晴天続きという天候は、粘土質の土壌では農作物の出来が顕著に現れてしまい、品質を保つのが難しいと大内さんはため息をつきます。

「でもね、農業って面白いんですよ」
終始明るい口調の大内さんですが、更に目を輝かせて言いました。

「新たに何かをしたいのでも、規模を大きくしたいのでもありません。今までのように、おいしいものを追い求め続けたいだけなんです。

それは自分がおいしいと思うものを作ることです。
人っておいしいものを食べると、ちょっとだけ幸せになりますよね。ちっちゃい幸せだけど、それって絶対良いよな……って思います。
自分が作る野菜や米でそう思ってもらえたら嬉しいです。
だから頑張ってるんです」

「実は若い頃は農業があまり好きではなかったんです。
でも30年前にここを継いでからは、やればやるほどはまるんですよ。
今ではすっかりはまちゃってます」

大内さんはそう言うと気持ち良さそうに笑いました。

最初に来たのはドイツからのボランティアでした(画像提供:大内さん)
今でも繰り返し来てくれる人もいるそうです(画像提供:大内さん)

そして現在も「援農」という新たな形で年に数回、ボランティアに来てくれていている皆さんがいるそうです。
そんな皆さんとの再会を楽しみにし、自分が野菜作りをしてる姿を見せたいと語る大内さん。農業をやり続ける原動力になっているに違いありません。

「福耕(ふっこう)
「震災後自分にとってスタートになったのは “畑を耕すこと”。
そして皆さんが来てくれたおかげで私は復興できました。
その2つの意味を込めた言葉で、ちょっと気に入ってるんです」

大事なのは震災前にやっていた季節の行事など、できるだけ同じようにやるようにすること。望むことは “元通り” なのだと、最後に大内さんは言いました。

二木地区の仲間と作ったブランド「福耕・六郷米」

大内さんはじめ、若葉区の農家の皆さんが手塩にかけた農作物は「産直広場ぐるぐる」で扱っています。
その安心・安全な野菜やお米を、1度味わってみてはいかがでしょうか。


◆ 一般社団法人 産直広場ぐるぐる

(取材日 平成27年11月9日)