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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2015年12月19日土曜日

2015年12月19日土曜日13:06
こんにちは、にゃんこです。

皆さんは、「母子避難」という言葉をご存じでしょうか?

福島第一原子力発電所の事故による、大規模な放射能災害。
この原発事故による放射能の不安から、福島県内に夫を残し、母親と子どもだけが県外に避難することを
母子避難といいます。

避難先として最も多いのは隣の山形県、次いで新潟県、秋田県、北海道、東京都、そして宮城県にも数多くの方が
避難をされています。

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11月20日~23日まで3日間にわたり、仙台市男女共同参画推進センター エル・パーク仙台にて、
「男女共同参画推進せんだいフォーラム2015」が開催されました。

“一歩前へ!”をメインテーマに、仙台市内で活動している市民グループが、女性と防災、平和、子育てなどをキーワードとしたさまざまなプログラムを開催。

私はその中の一つ「福島の女性たち」にお邪魔してきました。

震災以降、さまざまな困難の中を過ごしてきた福島の女性たち。
その4年半を振り返りながら未来へどう向かっていくかということを参加者と一緒に語り合おうというものです。


主催したのは、子育て家族の支援などを行っている「特定非営利活動法人 せんだいファミリーサポート・ネットワーク」
小さな子どもがいるママたちの交流の場ともなっている「仙台市子育てふれあいプラザ のびすく仙台」を運営しています。

そして今回お話をしてくださったのは、福島県から避難をしている女性を中心に結成された「福ガール'sプロジェクト」の方々です。「せんだいファミリーサポート・ネットワーク」の支援のもと2013年に発足しました。メンバーの多くの方が小さな子どもを持つママたちです。

被ばくのリスク、子育て、慣れない土地、、二重生活による経済的な負担、将来への不安…さまざまな困難を抱えながら小さな我が子を守るため彼女たちは今も必死で戦っています。

今日は、避難後の生活や子どもたちの様子、未来などについて語った彼女たちの声をお伝えしたいと思います。
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初めに「せんだいファミリーサポート・ネットワーク」の代表理事伊藤千佐子さんは、


「震災から約5年。5年も経つと震災のこと自体が忘れられてしまっているように思います。仙台でさえも普段震災の話はほどんど出てこなくなりました。でもここにいるお母さんたちにとってはまだ何も終わっていないですよね。“福島を忘れないでほしい”、“今の震災の状況を考えてほしい”というメッセージはずっと発信していかなければならないと思います」
とあいさつしました。

・母子避難を選らんだ理由、現在の状況は?
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震災時、南相馬市で生後2カ月の子どもを抱えて被災した女性は、
「地震後、南相馬にある夫の実家に家族で避難しているときに、知り合いから『原発が爆発したから逃げろ!』と言われ、次の日私の実家がある仙台に避難してきました。夫は今も南相馬に住んでいます。私も会社が南相馬にあるので、今現在も仕事のために通っています」

また福島市から避難をしてきたという女性は、震災後、妊娠を機に考えるようになったと話します。
「正直、妊娠をするまでは放射能のことはあまり深くは考えていなかったんです。でも妊娠が分かったときに、本当にここでこの子を産んでいいのか、生んで育てていけるかと不安の方が大きくなりました。子どもが元気に育つということを優先したいと思い、避難を決めました」

同じく福島市から子どもと避難してきたという女性は、
「当時働いていた会社から半年はいてほしいと言われ、なんとか半年間頑張りました。でもやっぱりお金よりも健康だと思い、週末に外気を浴びに遊びにきた仙台へ母子避難することを即決したんです。でも引っ越してみたら宮城県は同じ被災地だからという理由で家賃補助など支援がないことが分かって。今は貯金を切り崩して生活していますがいつまで続くのか不安を抱えながらの生活です。今度子どもが中学生になるので今後どうするかが今一番の悩みです」
と話します。

震災直後は、放射能の影響があるのかないのか、大丈夫?大丈夫じゃない?などの情報が錯そうしすごく混乱したという声も多数上がりました。
これは福島県だけでなく、東北や関東、静岡まで汚染されているなどの情報もあり、日本中の誰もが疑問や不安と戦ってきたのではないでしょうか。

戦後初の大規模な放射能災害は、さまざまな問題を突きつけました。
“例がない”から“答え”がない。一歩前に進む方向さえ示すものはありませんでした。

だからこそ、“すべて自分たちで判断しなければいけなかった”。
そしてその判断が良かったのかどうか…今でも彼女たちの心の奥で揺れ動いています。

・子どもたちの様子や今後について
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「子どもと二人だけの生活が続いて、パパがいないことが少しずつ当たり前になってきていました。子どもが3歳になって『何でパパは毎日帰ってこないの?』って聞かれるようになったんです。大好きなパパと一緒に暮らすという、当たり前のことができない。家族3人で一緒に暮らしたいという想いを大事にしようということで、今回福島に戻る決断をしました。これが最終決断ということではなく、そのときの状況によってきちんと話し合える家族を作っていきたいと思っています。震災があったことで、普通のこともありがたく思えるようになりました。生きるということとか安全な毎日とか、常に考えられるような家族でありたいと思っています」

「震災時は子どもが生まれたばかりで、パパと暮らしたのは1カ月くらい。それからずっと離れて暮らしているので、パパという存在を5歳になって最近ようやく認識するようになったんです。それまではよく遊んでくれるおじちゃんと思っていて、やっとパパは僕のパパなんだって。さすがにこれではいけないと。子どもが以前アナフィラキシーショックを起こしたことがあり、医療機関の整っていない南相馬には住めないということで避難を続けていました。そういった面での不安はありますが、それでもやっぱり家族3人で暮らすことが一番大切だと思い、子どもが小学校に入るのを機に私は戻ることを決めました」

「震災後福島に住んでいたとき、二人の子どもが鼻血を出したんです。それがすっごいショックで…。それがきっかけで母子避難することを決めました。決断しなければいけないことは多いですが、後悔のないように選択していきたい。お母さんが笑っていないと子どもの気持ちも暗くなってしまう。お母さんが太陽であるようにいつも笑っていられるような毎日を過ごしたい」

「震災時子どもは4歳で外で遊ぶのが大好きな時期でしたが、震災後は外で遊ぶことを一切禁止にしていたんです。葉っぱは拾っちゃダメ! 砂をいじっちゃダメ!とヒステリックになっていました。それが子どもにも悪影響を与えてしまって、いつの間にか子どもが笑わなくなっていたんです。ある日幼稚園のママ友にいつまでも気にしていたってしょうがない。これからもずっと続くことなんだから割り切っていくしかないと言われて、少し気持ちが楽になったんです。それから外遊びもさせるようにして、室内で干していた洗濯物も外に出せるようになって。そしたら子どもも笑ってくれるようになりました。やっぱりママは笑っていないといけないと強く思いました。平穏な日常は日常じゃない、普通のことが幸せなんだと思いながら過ごしていきたい」

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福島に戻るという決断をした方、避難先に家族で住むという決断をした方、まだ答えを出せない方―。
この5年間彼女たちはその答えを探し続けてきました。
その答えは一人一人さまざまです。

「どんな選択をしてもみんながそれを尊重して、認め合えるような福島県人でありたい。お互いを応援し合えるようにそれぞれの場所で自分の生き方、自分の幸せを見つけていきたい」

こちらは、ご自身も福島県出身という参加者の感想です。

この言葉にすべての想いが込められていると私は思いました。

「せんだいファミリーサポート・ネットワーク」理事の三浦三恵子さんは、



「 震災から月日がたち、母親たちの置かれている状況や悩みは一人一人違ってきています。それぞれが、自分の子どもや家族を守るために一生懸命考え、そして選択をしてきています。私たちにできることは、母親たちを見守り、応援し、福島を発信し続けることだと思っています」


震災から5年目を迎えようとしている今も、そしてこれからもこの問題はまだまだ終わることはありません。
この女性たちの姿を、想いを、どうか忘れないでください。


(取材日 平成27年11月20日)