宮城県南部に位置し、海岸に沿って南北に長い町、山元町。東日本大震災では大津波による甚大な被害がありました。
その山元町で役場職員を2014年3月に退職後、本格的にボランティアを行っている岩佐孝子さんの活動を紹介する第2弾です。
今回は、岩佐さんが現役の頃から「みんなが集える場所を作りたい」と考え続け、実行してしまった場所を訪問することができました。
岩佐さんは自宅を地域の人の集会や、ボランティアの人の宿泊などに開放しています。
入り口には「みんなの家」という看板が立っていました。
岩佐さんの実家はごく近所にあります |
岩佐さんの活動は多岐に渡り、毎朝小学生の子どもたちを学校まで送る「見守り隊」、「子育て支援」のサポーター、イベントの「企画・運営相談」、全国各地でも「講演」など、ざっとお聞きしただけでも理解の範囲を超えてしまうほどです。
その中の1つ、「やまもと語りべの会」の活動では、先日お伝えしたように「山元案内人」として実体験を交えながら震災を語り継ぐ他、同会で行っている「黄色いハンカチプロジェクト」、「子どもも大人もみんなで遊び隊」、Tシャツやストラップの売り上げによる子どもたちを対象にした「甲状腺の検査」などの取り組みに、岩佐さんは中心的存在として関わっているようです。
「ここには毎日誰かは来ていて、最低5人~10人は来ていてにぎやかです。
今日は用事があるからダメねって言っても、誰か来てご飯食べて帰っていったりしてるの。次の日の早朝から活動があるのに、今から? とちょっとびっくりするくらい遅い時間に集まってきたりしてね」
笑いながら話す岩佐さんには、迷惑な様子も疲れた様子もなく、むしろそういったことを楽しんでいる気持ちがうかがえました。
長年役場職員だった岩佐さんは役職柄、生まれて間もない子どもから80代の人まで、多くの子どもたちや山元町住民の皆さんと触れ合う機会がありました。
その活動を通して知り合った当時の高校生は現在40代。まるで自分の子どもような気持ちで今でも交流を続けているのだそうです。
その高校生だった子どもたちも親になり、小さな子どもたちも岩佐さんを慕っています。
また東日本大震災後は、役場に手続きなどに訪れる住民の方々が、他のどこにも話せない気持ちや状況を岩佐さんに語ることも多かったのだそうです。
「多くの人を知っていたので、亡くなった方の人柄や仕事ぶり、言っていたことなどの話を親族に伝えてあげたかった。当時はそういう話をさせてもらっていながら、事務を淡々とこなしていました。
また、親族を亡くし、普通は気丈にしている親御さんたちが岩佐さんの顔を見たとたんに泣き崩れてしまうこともあったのだそうです。
その中の1つ、「やまもと語りべの会」の活動では、先日お伝えしたように「山元案内人」として実体験を交えながら震災を語り継ぐ他、同会で行っている「黄色いハンカチプロジェクト」、「子どもも大人もみんなで遊び隊」、Tシャツやストラップの売り上げによる子どもたちを対象にした「甲状腺の検査」などの取り組みに、岩佐さんは中心的存在として関わっているようです。
「ここには毎日誰かは来ていて、最低5人~10人は来ていてにぎやかです。
笑いながら話す岩佐さんには、迷惑な様子も疲れた様子もなく、むしろそういったことを楽しんでいる気持ちがうかがえました。
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Tシャツやストラップなどの復興支援グッズの売り上げは、全て子どもたちの甲状腺の検査に使われます。 JR常磐線、旧山下駅前にある橋元商店に常時置かれています |
長年役場職員だった岩佐さんは役職柄、生まれて間もない子どもから80代の人まで、多くの子どもたちや山元町住民の皆さんと触れ合う機会がありました。
その活動を通して知り合った当時の高校生は現在40代。まるで自分の子どもような気持ちで今でも交流を続けているのだそうです。
その高校生だった子どもたちも親になり、小さな子どもたちも岩佐さんを慕っています。
また東日本大震災後は、役場に手続きなどに訪れる住民の方々が、他のどこにも話せない気持ちや状況を岩佐さんに語ることも多かったのだそうです。
「多くの人を知っていたので、亡くなった方の人柄や仕事ぶり、言っていたことなどの話を親族に伝えてあげたかった。当時はそういう話をさせてもらっていながら、事務を淡々とこなしていました。
そういう話は1時間も2時間もかかるけど、この人はどこにも行きようがないからなんだな……と思って対応していましたし、どこかで区切りはつけさせてあげなきゃいけないという思いでした。
でも“友達”って感覚があれば、お互い様って思えるでしょう。それに私に話してもらえるのはありがたいです」
また、親族を亡くし、普通は気丈にしている親御さんたちが岩佐さんの顔を見たとたんに泣き崩れてしまうこともあったのだそうです。
岩佐さん手作りの夕ご飯を前に、終始笑いが絶えない時間でした |
多くの人が安心感を感じて慕い、集まってくるのは、岩佐さんの体全体から赤外線を発しているかのような、じんわりと心が温まる人となりによるものだと感じました。
しかし「語り部」として自分の体験を話し、たくさんの人の辛い気持ちを受け止めてきた岩佐さん。普通は辛い体験は話したくないものですし、人の話を聞くのも大変なことですが、岩佐さん自身は大丈夫なのでしょうか。
「震災の時の話をするのは最初は抵抗がありました。
でもあの時犠牲になってしまった人たちがいます。今ここで受け継いでいかないと、あの日と同じようなことをまた繰り返してしまうかもしれない。
……でももう二度と繰り返してはいけないんです。その思いだけですね。
それに私だけで抱えるのではなく、話を共有しているメンバーがいるので大丈夫です。
しかし「語り部」として自分の体験を話し、たくさんの人の辛い気持ちを受け止めてきた岩佐さん。普通は辛い体験は話したくないものですし、人の話を聞くのも大変なことですが、岩佐さん自身は大丈夫なのでしょうか。
「震災の時の話をするのは最初は抵抗がありました。
でもあの時犠牲になってしまった人たちがいます。今ここで受け継いでいかないと、あの日と同じようなことをまた繰り返してしまうかもしれない。
……でももう二度と繰り返してはいけないんです。その思いだけですね。
それに私だけで抱えるのではなく、話を共有しているメンバーがいるので大丈夫です。
ここにはしょっちゅう遊びに来るメンバーがいて、自分のことでも、自分のことでなくてもみんなでワイワイ話しているの」
地元や県内の方、県外からボランティアに何度も来ている歌手・大学教授・会社員 学校の先生や報道関係者など、さまざまな業種、地域の方が集まっているそうです (画像:みんなの家の壁より) |
小さなコンサートを無償で行ってくれる歌手、お米や野菜を提供してくれる農家などの協力者もいるようですが、何か催しものがあるとやりたい人が集まって来て、自分で必要な物を持ち寄る“自己完結型”で参加してくれる方がほとんどなのだそうです。
「だから私は代わりに宿を提供しているだけなんです」
「最初はコーヒー屋さんか歌声喫茶をやろうと思っていた」と話す 内藤さんが持っているのは内藤さんが育てたカボチャ「ジェジェJ」(じぇじぇじぇい) |
この日は「みんなの家」にいつも集まっているメンバーで、自身小さな時から岩佐さんを知る阿部和泉さんと、県外からの移住者、内藤靖人(やすひと)さんにお会いすることができました。
内藤さんは、震災直後に埼玉県から山元町にボランティアに来たのがきっかけで、2013年山元町に住民票を移し、普通のサラリーマンから転身、農業をしています。
ニンニク、カボチャ、ナス、ピーマン、マコモダケなど作っているのだそうですが、未経験の農業に挑戦する姿を、みんなで応援している雰囲気でした。
ほぼ毎日のように来ているという阿部さんも含め、県外からも何度もボランティアに足を運ぶ人が多い理由はきっと、そこに会いたい人がいること。
被災地では現在も、団体で支援活動を続けている人もいれば、個人で活動している人もいます。その中に岩佐さんのような方がいる限り、ボランティアに訪れる人は絶えないのではないか……そんなことを感じた取材でした。
ONE TOWN ONE HEART
(手と手を取り合って、心ひとつに) というメッセージのTシャツは阿部さんの息子さんがデザインしたもの。 地元への愛が込められています (左から:阿部和泉さん、内藤靖人さん、岩佐孝子さん) |
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※「みんなの家」は基本的に岩佐さんの知人や友人に提供しているもので、通常の宿泊施設ではありません。
2015年9月25日 金曜日
できる事をできる範囲で~その1~震災を語り継ぐ(山元町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2015/09/1.html
■ やまもと語りべの会
http://tanemaki.info/?p=120
■ やまもと子どもも大人もみんなで遊び隊
http://yamamotoasobitai.web.fc2.com/
(取材日 平成27年8月29日)