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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2015年4月8日水曜日

2015年4月8日水曜日11:03
ザーリャです。
宮城県の復興事業を支えるために、全国の自治体から、多くの職員の皆さんが来ています。
家族と離れ、被災地の人々と寝食を共にしながら、支援に汗を流しています。

区画整理のために発掘が行わる、多賀城市宮内地区の八幡沖遺跡
(撮影:平成27年3月24日)
奈良・平安時代に陸奥国の国府が置かれ、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たした多賀城。東日本大震災では、市域の3分の1が水没し、その地域の工場地帯と住宅が壊滅的な被害を受けました。

多賀城市では、復興のための発掘作業が震災翌年から本格化しました。

遺跡に当たる地域で工事を行うためには、事前に届出を行い、工事で遺跡を壊してしまう場合は、事前に発掘調査を行うことが法律で定められています。

市の面積の約4分の1が遺跡である多賀城市。
復興事業については発掘調査の簡略化が認められました。しかしその数は、多賀城市の専門職員を総動員しても対応に遅れが出る規模に上りました。

そのような状況下に置かれた多賀城市を支援するため、全国の自治体から専門職員の皆さんが派遣されました。


奈良市教育委員会の中島和彦さん(奈良市教育委員会埋蔵文化財調査センター主任)は、平成26年4月から1年間にわたって多賀城市に籍を置き、市内の発掘調査を担当しました。

「復興での人員交流は、お互いの技術の底上げにつながる」と話す、
奈良市の中島和彦さん

「多賀城市に来て感じたのは、『市民の皆さんの生活は、徐々に普通の生活をとり戻しているな』ということでした。しかしその一方で、まだ多くの方々が仮設住宅にお住まいです。本当の意味での『復興』には、まだ時間がかかるように感じています」

町と自然が共生する多賀城市は、ふるさとの奈良市にも似ていると話す中島さん。多賀城市の発掘では、出土する土器に興味を引かれたと言います。

人々の生活があったことを示す遺物。地域や時代によって、その形式も違います
(撮影:平成26年10月11日)
「多賀城から出土する土器が、奈良のものとはまったく違うのです。今回の派遣では、違う視点から『自分の暮らす場所』をあらためて見つめ直す機会をいただきました。また、阪神淡路大震災時もそうだったと聞いていますが、かつてないほどの人員の交流が、互いの技術の向上に結びつきました。復興を支援するという事は、実は被災地のみならず日本全体のさまざまな技術の底上げにもつながっています」

まもなく派遣期間を終えて、奈良市へ帰る中島さん。多賀城の思い出は、「雪」です。

「2月の頭に大雪がありました。どんどん雪が降ってきて、自転車を押しても進めない位に積もりました。とてもきれいでね、本当に感動しました。奈良には雪が積もらんのです。こんこんと雪が降る中を、仲間と『今夜は雪見酒だね』と言いながらね、子どものように喜んで帰りましたわ。忘れられない思い出です」

三方を海に囲まれて、「東北地方よりも、九州や韓国にも近い」という山口県。上山佳彦さん(山口県教育庁社会教育・文化財課文化財専門員)は平成25年度からの2年間にわたって故郷を離れ、宮城県の支援を行いました。昨年度の一年間は、「八幡沖遺跡」をはじめとした多賀城市内各地の発掘調査を担当しました。

「詩人の金子みすゞは、私の故郷、長門市の出身です」
そう話す、山口県の上山佳彦さん。

「最初に被災地に立った時の衝撃は、今でも覚えています。『百聞は一見にしかず』でした。自らの目で見る視界の広がり、肌で感じる暖かさや寒さ、その土地の風や匂い。実際に現地に立ってこそ、分かることがあります。被災された方々とともに発掘作業に当たり、『自分も、できることをしなければ』と」

休日にはあちこちを訪れ、「東北地方の主なお祭りはすべて見てきた」と言う上山さん。今では同僚から「宮城の人より、宮城に詳しいと言われる」、と笑います。

「多賀城市での仕事は終わりましたが、今でも多賀城市の皆さんから連絡が来る。こうして支援に来ることで、本来ならば出会うこともなかった方々に出会い、交流が続いています。これは本当に幸せな縁(えにし)でした。4月からは山口県に戻りますが、たくさんの『お土産』が、私の胸の中に詰まっています。ありがとうございました」


3000m級の山々に取り囲まれ、松本城や諏訪湖など風光明媚な観光地で知られる長野県長野市。「今年は7年に一度の御開帳の年。善光寺はにぎわいますよ」。そう話すのは、長野県から派遣さた谷和隆さん(長野県教育委員会事務局文化財・生涯学習課)です。

長野県の谷和隆さんは、旧石器時代の遺跡で有名な野尻湖の発掘調査にも携わりました
平成26年10月まで、多賀城市の「八幡沖遺跡」を、そして11月からは石巻市の高台移転用地の発掘を担当しています。谷さんの専門は旧石器時代。派遣の前年は、長野県の標高1300m、野辺山高原の遺跡を発掘していたと言います。

「それに対して、多賀城市の八幡沖遺跡の標高は約2m。地表を掘り下げると、海の砂が一面に広がっていました。しかし、掘りやすい一方で、とにかく崩れやすくて。長野県には海がありませんから、当然、海砂もありません。このような発掘の経験は初めてでしたね」

発掘の成果が公開された平成26年秋の現地説明会では、多くの人が八幡沖遺跡を訪れました。谷さんは「多賀城市民の文化財に対する意識はとても高かった」と振り返ります。

「多賀城跡と言えば、『遠の朝廷』とよばれた古代東北の中心都市。そんな場所で仕事ができるという経験は、なかなかありません。文化財に関わる人間として、多賀城市には今後も『史都』としての復興を果たしていただきたいですね」

平成26年の八幡沖遺跡の現地説明会には、多くの市民が参加しました
(撮影:平成26年10月11日)
多賀城市にある宮城県立の東北歴史博物館も、多賀城市教育委員会の発掘調査協力に当たりました。相原淳一さん(東北歴史博物館・上席主任研究員)は博物館の支援体制を次のように語ります。


「博物館としても、27年度も引き続き多賀城市教育委員会に協力します。震災後に決めた中・長期目標では、復興にともなう発掘で明らかになった調査成果を集め、震災史研究と展示に活かすという目標を立てています」

復興が進むにつれて、高台移転用地となる標高の高い場所から、多賀城市八幡沖遺跡の調査のように、海に近く標高の低い地域での発掘調査も始まっています。

「標高の低い地域の調査データが蓄積されれば、過去の自然災害の様子が検討できます。文化財の調査成果を踏まえた『まちづくり』など、私たちの生活に直接役立つようになるでしょう」

多賀城のほぼ中央に位置する政庁跡。重要な政務や儀式が執り行われました
貞観11年(西暦869)。平安時代の国府多賀城も、大地震と津波によって甚大な被害を受けました。政府は特使を多賀城に送り、被災地の人々の分け隔てない救済を命じました。また、大宰府からは統一新羅の技術者を多賀城へ送り、その復旧に国が威信を懸けて取り組んだことが分かっています。

それから1100年余りの時を経て今・・・

太宰府市や奈良市、そして天童市(山形県)などの友好都市をはじめ、全国のさまざまな自治体が、そして海外の国々までもが、多賀城の支援に駆けつけました。

文化財保全の支援でも、多賀城市の救援依頼に対して多くの自治体が応えてくださいました。
傷ついた文化財の救出のために、古代の遺跡を持つ太宰府市(福岡県)、明和町(三重県)、小田原市(神奈川県)、国分寺市(東京都)の4市町村の教育委員会が、また、震災翌年度から本格化した発掘調査では、奈良市、山口県、長野県の2県1市が専門職員の派遣を行ってきました。

多賀城市の文化財は、そうしたたくさんの支援によって救われ、守られています。

多くの支援の手に支えられ、今再び多賀城によみがえろうとしています。
1100年前の多賀国府が、同じ復興への道を歩んだように。

(取材日 平成27年2月27日)