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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2015年3月6日金曜日

2015年3月6日金曜日10:58
宮城県塩竈市にある、公益財団法人宮城厚生協会坂(さか)総合病院
(写真提供:坂総合病院)
ザーリャです。
宮城県塩竈市。塩竈湾や仙台平野を一望できる丘の上に、公益財団法人宮城厚生協会坂(さか)総合病院があります。
大正元年の創立以来、100年以上にわたって、地域住民の安心の拠り所となってきました。

診療圏の人口は25万人。2市3町(塩竈市、多賀城市、七ヶ浜町、利府町、松島町)と仙台市東部にまたがる湾岸エリアをカバーします。地域医療の中核を担う「地域医療支援病院」の一つとして、また災害発生時には傷病者の受け入れや医療救護班の派遣等を行う「災害拠点病院」として大きな役割を担います。

東日本大震災では、診療圏全ての自治体が甚大な津波の被害を受け、病院から700mの地点にまで津波が迫りました。

震災の発生直後から救命の最前線に立って救急搬送されたすべての患者を受け入れ、その後の1カ月間で14,000名の外来診療を行いました、また、病院職員が継続的に診療圏の避難所へ赴き、4,300人の避難者の診察と治療を行いました。現在も塩竈市と多賀城市の6カ所の仮設住宅で「健康相談会」を継続実施し、「見守り」活動にも力を入れています。

坂総合病院の事務局長、佐藤孝一さんに、震災時の対応と課題についてお話をお伺いしました。


発災直後に設置した「トリアージポスト」
2011年3月11日。
当時、医局担当の事務部長だった佐藤さんは、医局での執務中に激しい揺れに襲われました。

坂総合病院のある塩竈市は震度6強。3分以上にもわたる激しい揺れがおさまると、職員は直ちに、訓練を重ねていた「災害対策マニュアル」に基づく行動に移りました。発災の6分後(14:52)には全職員が集合して災害本部を開設し、13分後(14:59)には正面玄関に「トリアージポスト」を設置、予想される多数の傷病者の受け入れに備えました。

発災の6分後には全職員が集合し、災害対策本部が設置されました
(写真提供:坂総合病院)

「トリアージ」とは、傷病者の重症度に応じて治療の優先順位をつけることを言います。それにより患者を「黒(死亡~救命適応外)」、「 赤(生命にかかわる重症)」、「 黄(生命にかかわらないが早期処置必要)」、「緑(緊急性ない軽傷)」の4段階に分類します。

トリアージ・タッグの見本(写真提供:坂総合病院)
坂総合病院では、正面入口に「トリアージポスト」を設置。そこに待機した医師が来院する患者の重症度合いを識別しました。患者はその後、それぞれ重症度ごとに設けられた処置室で治療を受けました。


次々に搬送される低体温の患者
発生から1時間後、最初の患者が救急搬送されました。病院から車で15分ほどの距離にあるショッピングセンターで、崩落した天井の下敷きになった男の子でした。病院に着いた時はすでに心肺停止状態で、懸命な救命措置が施されましたが、残念ながら助かりませんでした。

「坂総合病院は、全ての救急搬送を受け入れる」。
救急隊員や救援車両に、口づてで広がって行きました(写真提供:坂総合病院)

やがて外では激しい雪が降り始め、気温はマイナス2度に下がります。発災から2時間が経過した夕方になると、溺水や低体温の人が徐々に運ばれてくるようになりました。その多くは津波にのまれた人々で、体温が35度以下になる低体温症でした。

救急車が病院正面玄関前で列をつくりました。この日だけで、通常の7~8倍に当たる50人ほどの救急患者が運ばれました。病院ではトリアージエリアを中心に、24時間体制で懸命な災害医療活動が続けられました。

トリアージポストでの医療活動は、夜を徹して行われました
(写真提供:坂総合病院)

◆「いったい、何が起きたのか?」
坂総合病院のスタッフの多くは、阪神淡路大震災の際に、現地で救援に当たった経験がありました。しかし、その阪神の患者の状況とは、まったく異なっていました。

「想定と違ったのは、患者が家屋の倒壊による負傷者ではなかったということでした。実際には、津波による低体温の方々が、その多くを占めていたのです」
佐藤さんは当時の様子を振り返ります。

搬送される重症患者の割合も、少ないものでした。
それは、津波で流された方々の多くが、すでに亡くなられていたためでした。

津波に巻き込まれながらも助かった方々は、体温を上げなければ命に係わる低体温の症状でした。「黄色エリア」では、救助された方々の体をストーブやお湯で温め、点滴を施す処置が続けられました。

「本当に助けるべき命を、どうすれば救えるのか。徹底した話し合いが行われました」。
そう当時を振り返る佐藤孝一さん
その一方で、病院職員の皆さんは地域の被害状況を十分に把握できずにいました。断片的な情報に限られる中で、昼夜を通した処置が続き、病院の外に出る時間もなかったためでした。

「(診療圏である)七ヶ浜町の沿岸部の街が、全て無くなっている」。
佐藤さんがその話を聞いたのは、震災発生から一週間が過ぎたころでした。「いったい、どういうこと?」と、その話を飲み込めなかったと言います。

「病院内での処置に追われる私たちは、患者さんが経験した恐怖や津波の被害の現状を、まだ十分に知りませんでした。
それは、患者さんとの気持ちの間に『落差』を生んでいました」

発災から一週間後、病院は、全職員が七ヶ浜町を訪れる機会を作りました。津波の被害を自らの目で確かめ、患者の気持ちを理解するためでした。

「信じられないような被害を目にして、職員は誰もが呆然として帰ってきました。そこから初めて患者さんの話が理解できるようなりました」

患者が経験した恐怖や悲しみを、職員が理解する。それは治療にとって非常に重要なことだったと佐藤さんは言います。


◆DMATに依頼した最初のお願い
さまざまな課題もありました。その一つが、食料の問題でした。
備蓄されていた食料は全て患者用のもので、職員分の備蓄はありませんでした。そのため震災から3日目の朝まで、職員が食事をとるとことはありませんでした。その間は病院の売店にあった菓子でしのぎました。

売店の菓子類を集め、職員の当座の食料に充てました
(写真提供:坂総合病院)
食料が届き始めても、食事の準備に人を回す余裕がなく、1回の食事で食べられるのも、おにぎり1個に限られていました。

「そのため、全国から支援に来てくださったDMAT(Disaster Medical Assistance Team:災害派遣医療チーム)の皆さんに、『申し訳ないけれど、おにぎりを握ってください』とお願いしました。本当に、心苦しかった。でも、そのおかげで私たちもお米を食べられるようになったのです」

現地での依頼には、臨機応変に応える。自身もDMATの隊員として阪神に赴いた経験を持つ佐藤さんは言います。

「超急性期の被災地で『必要とされること』は、実は『自分たちが思い望むこと』ではない場合も多いのです」

それは20年前の阪神淡路大震災で、佐藤さん自身も何度か経験したことでした。


◆その瞬間、人々が大切にしているもの
阪神大震災で現地に赴いた佐藤さんには、今でも忘れられない出来事があります。

 被災地に入って2日目。ある夫婦からボランティアを依頼され、佐藤さんたちスタッフは依頼者のお宅を訪ねました。
庭には池があり、そこには子どものいない老夫婦が大切に育ててきた、たくさんの鯉がいました。

そのご夫婦は、訪れた佐藤さんたちに、「あれがお父さん鯉で、それがお母さん、そして子どもがこれで・・・」という具合に、
丁寧に鯉たちの説明をしてくれました。

しかし、鯉たちがいる池の水位が、下がり続けていました。震災によって池の底に亀裂が生じ、水が漏れ出したためでした。ご夫婦は、自分たちではどうしようもなくて、ボランティアを呼んだと言います。

「何をすればいいですか」と聞いた佐藤さんたちに、その夫婦が答えました。

「あと半日もすると、水が枯れてしまいます。そうすると、鯉たちが死んでしまう。でも、もう絶対に死なせたくないのです。ここから階段を下りた100メートル先に、ダムがあります。そこに、この鯉たちを放したいので、皆さんにはそれを手伝ってほしいのです」

スタッフは手分けして50匹ほどの鯉をバケツに入れ、皆でダムへと運びました。

「じゃあ、放流していいですか」と聞いた佐藤さんに、老夫婦が答えました。
「お願いします」

まず、お父さん鯉、お母さん鯉を放しました。
2匹の鯉はゆっくりとダムの中に姿を消して行きました。そうすると、そのご夫婦が、佐藤さんたちに大声で叫びました。

「早く、早く子供たちも放してください!ずっと一緒だった親子が、こんな広いところで、離れ離れになってしまう、そうなっては・・・困るのです!」

佐藤さんは言います。

「私たちは、医療という一分野で、命を救うという事はやっています。しかし、被災した人々それぞれが、その瞬間瞬間で最も大切な願いや思いがあるのです。人々に接したときに、『被災地で必要とされることは、自分が思っていることと違う』ということに、気が付かされるんです」

佐藤さんは、「思い出して辛いのは、被災した人々の気持ちだった」と振り返ります。

「私たちは『これが必要だ、こうしなければいけない』と思って、自分の価値観で被災地に入って行きます。ところが、そうじゃない。そのような場面に遭遇して、初めて『ああ、そうだったのか』と、人の本当の気持ちに気が付くのです」

震災前の当たり前の生活に戻りたい、戻してほしい。
佐藤さんがそれぞれの被災地で出会った人々の願いは、その一点につながっていました。

(後編へ続く)

(取材日 平成26年9月19日)