header

宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

ヘッダー写真説明文

写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年10月6日月曜日

2014年10月6日月曜日10:18
こんにちは、にゃんこです。

宮城県の南部、山元町で“山元案内人”として震災の記憶を後世に語り継ぐため、また山元町の魅力をたくさんの人に伝えるため「やまもと語りべの会」を発足し、被災地ガイドなどを行っている会長の渡邉修次さん


2014年8月下旬、被災地体験学習のため山元町を訪れた館林市立第一中学校の生徒さんたちと一緒に、被災地ガイドに参加させていただいた時の様子を、前編に続きお送りしたいと思います。

前編はこちら。

2014年10月3日 金曜日
山元町の未来のために~「やまもと語りべの会」[前編](山元町)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_3.html


私たちが降り立った場所は、旧山元町立中浜小学校

この中浜小学校は、海岸線から約400mと海から非常に近い場所に建っています。

左手の奥が海側になります。この外観だけでも津波の恐ろしさが伝わってきます

屋上からの景色。海はもう目の前。今は穏やかな海がどこまでも広がります

震災当時のまま…そのまま残されている校舎。
非常に危険な状態のため普段は立ち入り禁止となっています。
この日は自己責任と許可を得て入ります。

見学にあたり渡邉会長からとても大事なルールが伝えられました。

「壁は崩れ、天井からは鉄筋などいろんなものがぶら下がっています。ガラスも割れたまま散乱しています。非常に危険を伴いますので、ここからはヘルメットを着用してもらいます。

バスの運転手さんにラジオをつけていただくようにお願いしました。見学中に何かあればクラクションを鳴らしてもらいます。そしたら皆さんはすぐにバスに戻ってきてください。そして避難所に移動します。

みんなが助かるためには、自分の命は自分で守る。とにかく急いで戻ってくること。それが条件です」

一瞬にして車内がピリッとなりました。
そうここは、大津波が襲った場所。私自身、その危機感が薄れてしまっていることに気が付きました。
もし今ここで地震が、津波が起きれば…。
もう津波を遮るものは何もありません。海からのそのままの勢いで襲ってきます。

「いつ何があるかわからない。だから想定しておくことが大切なんだ」という渡邉会長の言葉が胸に響きました。


校舎の階段の上、屋根の下の部分に青い表示板があるのが分かりますか?
ここの位置が津波の高さです。鉄筋の柱でさえも簡単に壊してしまう津波の威力のすさまじさが分かります

当時、中浜小学校の全校生徒は59名、先生は14名。
平成元年に建てられた校舎は2階建で、屋上はありません。
震災時は、避難してきた保護者や地域の方を含め90名がいました。

近くの避難所までは徒歩約20分。
津波到達まで間に合わないと考えた校長先生が避難先に思い付いたのは、普段は使われていない屋根裏の倉庫でした。

「約20分の間に大きいもので4回の津波が小学校を襲いました。第2波から約12m。2階の天井まで到達したんです。津波は向こうの山にぶつかり、また戻ってくる。行きの津波で壊され、帰りの津波でさらに大きく壊される。通常避難場所に指定している体育館も大破しました。

ここは周りよりも盛土していて高いため、津波が去った後は水が引きました。でも学校の周りの家はすべて流されて何もない。海の中に学校だけがポツンと残された陸の孤島状態だったんです。

校長先生のとっさの判断で屋根裏倉庫に避難した90名は奇跡的に全員無事でした。
 
もちろん食料なんてない、水もない。その日の気温は-2℃。天気は雪。温かい布団だってない。翌朝6時に自衛隊のヘリに発見されるまで約15時間、全員で必死に耐えたんです」


「津波の威力は本当にすごい。体重が100kgの人はたった50cmの津波で簡単に倒されてしまうんだよ」

昇降口。下駄箱も津波で流されました。
天井からはいろんなものがぶら下がり、いつ何が落ちてきても不思議ではない非常に危険な場所です

大津波が運んできた木の根やがれきも、まだそのまま残されています

震災前と震災当時に撮影された写真を見ながら被害の様子を語る渡邉会長。
写真右奥に見えるのが、資料室にある屋根裏部屋へと続く階段です

津波が去ったあとの中浜小学校。周りは海と同化し、小学校だけがポツンと残されています。
周りに集落があったことが想像できますか? 津波の恐ろしさが如実に表れています

「屋根裏部屋へ行くにはまず資料室の中にある階段を上ります。ここは今は鍵がかかり立ち入り禁止のため、当時のままになっています」

立ち入り禁止の理由、それは―

「今中浜小学校は、震災遺構として残すかどうか地域住民の間で話し合いが行われています。現在は住民の7割が賛成。中学生以上は8割が賛成しています。そのためここを入室禁止にして、そのまま残しているんです。今日は特別に入室許可をもらいました」

渡邉会長のご意見は?

「僕は賛成です。震災は若い命もたくさん奪っていきました。今も生きて頑張っていたんだろうなと思うと・・・。だからこそ防災教育のために残したい。取り壊してしまったら伝えるものが何もなくなってしまうんです。風化されてしまう。未来のために残さなければいけないと思っています」


ここが90名の命を救った屋根裏部屋です。広さは約200平方メートル

「津波が壁にぶつかるときの衝撃、音、振動―。すごく怖かったと思います。90名の避難者たちは真っ暗な倉庫の中でそれを体験していたんです。それがどんなものだったのか―。体験した者しか分からない。みんなで声を掛け合って乗り切ったんです」

「普段は倉庫として学芸会で使う衣装などをしまっていた場所でした。段ボールを敷いて寝床代わりにしたり、少しでも寒さをしのごうと衣装をかぶったり。散乱しているのはそのためです」



「震災遺構として残れば、震災の体験を100年、200年後にも伝えることができる。こいうことがあったんだと目に焼き付けてほしい」


中浜小学校と海の間に立つ樹齢約400年のケヤキ。家のイグネとして立っていたそうです

「このケヤキにたなびいているのは、全国、世界からのメッセージが書かれた3,000枚の黄色のハンカチです。中には山元町の人たちが書いた感謝のメッセージも含まれています。

津波で何もかも流されてしまった。でも支援をいただいたり、山元町に来ていただいたりと、たくさんの方々との出会いが今の私の一番の宝物です。それを今も大事にしています。形あるものではなく絆が生まれたことが、本当に最高の宝物です。感謝です。

でも当時は、感謝の言葉しか言えなかったんです。感謝したいけど何もお返しができない。
だから『私たち元気だよ』と伝えること、そしてここまで動けるようになったことを見せたかった。私たちが自立することが唯一の恩返しだったんです。

皆さんも自分が同じ立場になったどうするか、これから起きるかもしれない災害のために考えてほしい」



「ここは今後、全国で東日本大震災に匹敵する津波が起きたときの原点になります。各学校、地域によって逃げ方が違います。場所によって津波の高さも違う。例えば休日に一人だったら? 将来住んだ場所がもし海に、川に、山に近かったら? どうするのか。

自分の命を自分で守らないとダメなって思った。
山下中学校で4名の生徒を亡くして今更ながらに思っています。
一人の生徒はおばあさんを助けに戻って亡くなってしまいました。その生徒のお母さんも姉妹も、同じようにおばあさんの命を守ろうとして命を落としてしまいました。

みんなが大人になった時にどうやって助けるの?
自分が助けに行くのではなく、やはり一人ひとりがまずは自分の命は自分で守るということ、その後はどう助けるかを考えて行動していけば、もしかして助かったかもしれないと今私は思っています。

だから語りべをやっているんです。自分の命は自分で守るということを伝えたい。悲しんでばかりではいられない。伝えていかないと。黙ってたら通じない。言葉にして話すことによって風化が防げる。災害にあったときに思い出してほしい。

助けるものと助けられるものがいる。立場がどうなるのかは誰にも分からないのです。
どうしたらいいか今でも悩んでいます」


バスは解散場所となるJR常磐線の旧山下駅へ戻ります。
ここでは津波によって甚大な被害を受けた渡邉会長のご自宅の写真を見せていただきました。

がれきに押しつぶされてしまった渡邉会長のご自宅。
この地域は2種危険災害区域に指定されているため、自宅を再建する際は1.5mのかさ上げが必要なのだそうです


(後編へ続く)

2014年10月9日 木曜日
自分の命は自分で守る~「やまもと語りべの会」[後編]
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/10/blog-post_36.html


(取材日 2014年8月21日)