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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年9月30日火曜日

2014年9月30日火曜日10:34
野々島から見える外洋の海(写真提供:NPO High-Five)
「とにかく、海苔を食べるのが好きだったんですよね。海外遠征の荷物の中には、必ず塩竈の海苔が入っていました」

ザーリャの質問に答えて当時をそう振り返るのは、フリースタイル・スキーの日本代表として、ソルトレイク(2002年)、トリノ(2006年)と、2回の冬季オリンピックに連続出場を果たした日本を代表するアスリート、畑中みゆきさん

支援物資を運ぶ畑中さん(写真提供:畑中みゆきさん)
その畑中さんが今、全力を注ぐ活動があります。出身地である宮城県塩竈市で、自らが立ち上げたNPO High-Five
見つめるのは、塩竈市の離島、浦戸諸島です。

畑中さんが高校までを過ごした、宮城県の鹽竈市。
仙台藩の物資の荷揚げ港として、また奥州一の宮・鹽竈神社の門前町として繁栄の礎を作り、近代では近海・遠洋漁業を支える国内有数の港湾都市として大きく発展しました。また、日本三景、松島への海の玄関口として、今も多くの観光客が訪れています。『八百八島』といわれる松島の島々のうち、実は半分以上が塩竈市にあります。

美しい島々が点在する松島湾では、その穏やかな内海の条件を生かし、海苔や牡蠣などの栽培漁業が盛んです。

「今回の津波で亡くなった叔父が、いつも塩竈の海苔を送ってくれたんです。一帖(10枚)ぐらいは、バリバリと食べていましたね。それぐらい、海苔が大好きで。それが浦戸諸島を支援するきっかけでもありました」
塩竈と自分、そして海苔の思い出を、畑中さんはそう話します。

畑中さんは被災地を回り、支援を呼びかけました
(写真提供:畑中みゆきさん)
震災当時は茨城県のつくば市に住んでいた畑中さん。震災による東北の惨状を目にした畑中さんは居ても立ってもいられず、知り合いのアスリートの皆さんや企業へ、被災地への支援を呼び掛けました。そうして集まった支援物資を車に積み込むと、宮城県内の津波被災地へ向かいました。

滞在した被災地の一つに、塩竈市の沖合に浮かぶ離島、浦戸諸島がありました。

松島湾に浮かぶ浦戸諸島には桂島(かつらしま)、野々島(ののしま)、寒風沢島(さぶさわじま)、朴島(ほおじま)の4つの有人島と、馬放島、大森島など、名前を持つ島が53、無数の無名の島々と暗礁から成り立っています。東日本大震災での津波では、最大8mの津波が到達し、港に集まっていた集落のほぼすべてが破壊され、地形も変わるほどの被害が出ました。

震災後の桂島の様子。携帯電話のカメラで撮影した
(写真提供:畑中みゆきさん)
支援のために桂島に滞在した畑中さんは、島民の方々が強い絆で結ばれていることに驚きました。

「おそらく、長い歴史にわたって、離島という空間で支え合って生きてきたからでしょう。廃校になった学校に、島の皆さんが燃料と食糧を持ち寄り、そこで皆で調理して、皆で平等に分け合って食べていました。まるで、島が一つの家族のように。『ああ、こういう避難所があるんだなと』と、強く心を打たれました。」

支援物資を運び、宮城県内の被災地を訪れました
(写真提供:畑中みゆきさん)
離島であるがゆえに、本土からの支援が遅れた桂島。しかしそこで畑中さんが見たのは、来る日も来る日も瓦礫を撤去し、黙々と復旧に打ち込む、そんな島民の皆さんの姿でした。まだ寒さも厳しい3月、冷え切った体で復旧作業から戻った皆さんは、温めた海水を入れたペットボトルを抱えて、湯たんぽ代わりにして眠っていました。

「この人たちを、支援していきたい」

畑中さんは、浦戸諸島の長期の支援を心に決めました。
桂島の民家に間借りし、当時自宅のあったつくば市と桂島を往復する日々が始まりました。島と本土を自由に行き来するために、船舶免許も取得しました。
震災から3カ月が経った6月、畑中さんはふるさとである、この塩竈の地へ戻ることを決めました。

「復興にはまだ時間がかかります。細くても長い支援を事を考えると、移住は必要でした。振り返ってみると、ふるさとへの“郷土愛”もあるのかな」

離島が舞台の「のりフェスティバル」
震災後、一人で被災地を回り、支援活動を行っていた畑中さん。しかし、長期にわたる支援には限界があります。そのため、震災の翌年2012年1月、畑中さんは活動を組織化し、継続してゆくために、NPO High-Fiveを立ち上げました。それまで、街づくりへのさまざまな提案をしてきた畑中さんでしたが、「自らが直接かかわることは無かった」と言います。ふるさとのために、「復興支援のためだけではなくて、まちづくりや地域おこしにも携わりたい」という思いも込められていました。

1,500人が来場した、2013年の「のりフェスティバル」
(写真提供:NPO High-Five)
震災の年から、浦戸諸島の海苔栽培農家へのボランティアを呼び掛け、作業を行ってきた畑中さん。その桂島の特産品である「海苔」をPRするために、2012年から毎年桂島を会場として、「のりフェスティバル」を開催しています。ステージイベントには活動を支援する企業や個人、ボランティア、そして浦戸の島々の皆さんが参加します。昨年は1,500人を超える人々が船で桂島へ来場しました。

県の内外へ、『食』のPR
また、High-Fiveが力を入れる事業に、塩竈市の食振興事業があります。
広く県内外のイベントに出店し、浦戸諸島の特産品や料理を通じて地元の「食」のPRを行っています。
「浦戸諸島の地図を持って行ってお話しするのですが、『そんな島々があるのは知らなかった・・・!』と、多くの方々が興味を持ってくださいますね。浦戸諸島の魅力が、実はまだまだ知られていないのです」

浦戸諸島のPRで全国を走るキッチンカー
足利東ロータリークラブから寄贈されました
(写真提供:NPO High-Five)
塩竈市が委嘱する「しおがま文化大使」でもある畑中さん。自身が開催する復興支援のスキー教室でもPRに力を入れます。
 
「塩竈市は、さまざまな『資源』がたくさんある場所。浦戸諸島では、海の色、時間の流れ方が島特有のものがあります。そこには、美味しい食材や料理があり、シーカヤックや地引網も体験できる。活かしきれていない天然の『資源』の宝庫です。それを、フル活用したいですね」

浦戸諸島を菜の花の島に
昨年の9月から、新しいプロジェクトも始まりました。「塩竈浦戸菜の花プロジェクト」です。
浦戸諸島では大正時時代から、仙台平野特産の「仙台白菜」の採種地として、その生産を支えてきました。そのため、かつては島のいたるところに菜の花が咲き乱れていたと言います。その「菜の花の島」を復活させるのが、このプロジェクトです。

菜の花畑を作るために、荒れ地を耕します
(写真提供:NPO High-Five)
菜の花プロジェクトには、多くの子どもたちも汗を流します
(写真提供:NPO High-Five)
「今年の春、初めての花が咲きました。しかし、塩害や土の問題もあって、細々と咲くのがやっとでした」

毎週水曜日、High-Fiveとボランティアの皆さんが、菜の花畑の復活のために、島の畑で作業に汗を流しています。
「きれいな花が咲けば、たくさんの人が島に来て、喜んでくれる」。雑草を取り、ヨシ原を切り開き、溝を掘る。菜の花を育てるために、地道な作業が続いています。

施設の皆さんが、畑作りのお手伝いを行っています
(写真提供:NPO High-Five)
菜の花畑のお手伝いには、地元の障害者自立支援施設の皆さんも協力しています。High-Fiveの活動を支える、GENkids☆の子どもたちやボランティアの皆さんとの共同作業。お互いの学びの場になることを畑中さんは願っています。

これからの『夢』
震災から3年半がたち、少しずつ島の復興が進んでいます。今年は閉鎖されていた2カ所の海水浴場が再開し、多くの人が島を訪れました。

同じく塩竈で離島振興活動を推進する、NPO「浦戸アイランド倶楽部」。
GENkids☆は、その田植え作業にも参加しましました
(写真提供:NPO High-Five)

畑中さんの当面の目標は、High-Fiveの活動を10年続けること。「だから、『のりフェスティバル』もあと7年、7回は続けますよ」と畑中さん。

塩竈のイベントに欠かせない存在となった、
GENkids☆の皆さん(写真提供:NPO High-Five)

畑中さんが、その先に描く夢。それは、どんなものなのでしょうか。

「GENkids☆の子どもたちが、私たちの活動を見て、『畠中さんのような活動をしたいな』と、そう思ってもらえることかな」

「GENkids☆」は、NPO High-Fiveに所属する子どもたちで結成された、いわば、「子ども部会」。ボランティアとしてさまざまなイベントや活動に参加し、塩竈市の復興を支える子どもたちに成長しています。

「私たちの思いを引き継ぐ子が現れることを願っています。それが、私たちHigh-Fiveの活動そのものでなくてもいいんです。次世代を担う子どもたちに、『畠中さんがやっていたのは、こういうことだったのか』と理解してもらいたい。その種まきができたらいいですね」

そして、畑中さんは最後にこう付け加えました。

「地元である塩竈を、ひいては宮城県を、県内外や世界に対してPRできるような子どもたちになってもらいたい。それが私の活動の『夢』なのかもしれません」

育てた菜の花が、今年初めて花を咲かせました
(写真提供:NPO High-Five)
支援そのものの大切さと、その活動を引き継ぐ人材を育てることの大切さ。
菜の花の種が、次世代の子どもたちに引き継がれていきます。
浦戸の島々では、これから、一面の菜の花が春風に揺られることでしょう。



(取材日 平成26年9月10日)