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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年9月13日土曜日

2014年9月13日土曜日10:58
「荒浜の松林の中で、引き波でさらわれてきた菊が、人知れず花を咲かせていました」
(平成24年11月17日 撮影:髙橋親夫氏)
ザーリャです。
「開発によって、ふるさとの風景が消える」
先祖が耕し、自分を育ててくれたふるさと、旧高砂村。その地への惜別の思いを胸に、30年にわたって、ただ一人集落を記録し続けた人がいます。七北田川のほとり、宮城野区高砂に住む髙橋親夫さんです。

髙橋さんの記録は、東日本大震災の発災によって、さらに特別な意味を持つものとなりました。

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2014年9月7日 日曜日
今しか残せないものを、記録したい[前編]~在りし日のふるさと30年 (仙台市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/09/30.html

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震災後、荒浜へ
仙台市博物館に写真が収蔵され、7年がたった平成23年。
東日本大震災が発生しました。
髙橋さんは自宅近くを流れる七北田川で、真っ黒な津波が、家や、そして人を押し流しながら川をさかのぼってゆく様子を見たと言います。海岸地帯からは黒煙が立ち上り、火災の炎が夜空をオレンジ色に染めました。

その後、髙橋さんは地区の責任者として、避難所の運営に追われました。すぐ隣の蒲生や岡田などの津波被災地区から、多くの人々が髙橋さんの地元の市民センターへ避難して来ていました。人々の口から聞こえてくるのは、壊滅的な被害の様子でした。

髙橋さんは、避難所運営のわずかな合間を縫って、仙台市荒浜地区を訪れました。

「人間が作ったものが、ことごとく壊されてしまった」
多くの人命が失われ、凄惨を極めた現場に立ち、髙橋さんはそう感じたと言います。

「ここにあるのは、瓦礫ではない。荒浜に住んだ人たちが、長い時間をかけて、積み重ねてきた生活の痕跡、そのものだ」

記録して残す。それなら、私にもできるかもしれない。
髙橋さんは、再びカメラを持ちました。震災前には2,700人が暮らしていた荒浜の集落は、見渡す限りの瓦礫に変わり果てていました。

「目の前にあるのは、『瓦礫』じゃない。その一言で片づけてはいけないものです。一軒一軒の家族の、一人一人の人間の幸せな生活がそこにあった。その痕跡なのです。震災が一瞬にして、それを破壊した。そういうことなのです」

髙橋さんは、地図を持ち、集落の一軒一軒の家の前に立って、痕跡を記録していきました。建築士として、可能な限り工法や材質も記録しました。そこに暮らしていた人々の生活が、目に浮かびました。「それが、何よりも辛かった」と髙橋さんは言います。祈りながら、記録を撮ることの意味を自らに言い聞かせ、荒浜の町の跡を歩きました。

髙橋さんによって作成された、荒浜の記録。それらもまた、仙台市博物館に収められました。

「砂浜に咲いていたハマヒルガオが、荒浜の集落跡に咲き乱れていました」
(平成25年6月11日 撮影:髙橋親夫氏)

貞山運河の全流域を撮影する
もう一つ、震災後に髙橋さんが記録したものがあります。
旧北上川から阿武隈川までをつなぐ、全長49km、日本最長の「貞山運河」(通称、貞山掘)です。藩政時代から明治にかけて作られた土木遺産です。

 震災前の貞山運河(名取より荒浜をのぞむ)
(平成13年5月17日 撮影:髙橋親夫氏)

宮城県土木部の「貞山運河再生・復興ビジョン」(平成25年5月)には、その被害状況が次のように記されています。

「津波浸水域の市街地は壊滅的な被害を受け、海岸堤防や道路といった公共土木施設が甚大な被害を受けた中、運河群についても例外なく、堤防や護岸が大きく被災し、津波の引き波で集められた瓦礫で埋没しました」

震災前の平成13年、髙橋さんは一度、貞山運河の全流路の様子を記録しました。その記録は、運河を管理する宮城県土木部が引き継ぎ、保管しています。「周辺の開発が進めば、貞山運河の様子も変わるかもしれない」。開発によって無くなった蒲生地区の貞山運河跡を見て、そう思ったのが記録のきっかけでした。

記録の作成から10年が経過した平成23年。東日本大震災が発生しました。

震災以前の貞山運河(大街道~北上川付近)
(平成13年5月17日 撮影:髙橋親夫氏)
「貞山運河は、どうなってしまったのか」

震災の年の9月から、高橋さんは自らの目で確かめるために、再び貞山運河の流路全域を歩き、その記録を行いました。

「貞山運河も、津波によって大変な被害を受けていました。そのため、近付けない箇所や、危険な場所がたくさんありました。運河に沿って歩き、障害で進めなくなったら、また戻って別の道を探す。それを繰り返しました」

髙橋さんが一人で行った、貞山運河全域の悉皆調査。普段は「量」の話をしない髙橋さんも、「かなりのボリュームになった」と話す、膨大な記録になりました。震災後の早い段階で被害状況を網羅したこの記録は、宮城県土木部と、貞山運河の流域自治体へ引き渡されました。

「活用していただければ、どんな形でも、私は構わないのです」

髙橋さんは、自分の写真について、いつもそう話します。


写真と自分、そして、これから
震災から3年5カ月。除塩作業を終え、再び作付けが始まった仙台平野の水田では、黄金色の稲が風に揺れています。その海岸に続く田園風景の中を、間断なく行き交う、大型ダンプカーや工事車両。土日も関係なく、早朝から夕暮れまで、震災の年からその光景は変わりません。

震災後、災害危険区域となった荒浜。「主がいなくなった庭にも、季節になると花が咲いています」
(平成24年7月25日 撮影:髙橋親夫氏)
「今しか残せないものを、記録したい」
髙橋さんは今、仙台市東部の沿岸地域に足を運び、復興工事の現場を撮影しています。

「今は、他の写真は撮れません。ある程度気持ちが落ち着くまでは、やはり被災地で、被災地の人間にしか撮れない写真を撮りたいのです。悔いが残らないように」

髙橋さんが撮影したという、新しい写真を見せてもらいました。
被災地の地平線に向かって、水田跡地に一直線に引かれた、真新しい区画ライン。新しいまちづくりが、この直線から始まろうとしていました。

「手前は現在で、地平線の向こうが未来。私には、そう思える風景です」

写真を撮るという事は、自分との対話であると髙橋さんは言います。今自分が撮ろうとしているものは、いったい何なのか、何を意味しているのだろうかと。

「町が消え、また新しい町ができてゆく。集団移転や、かさ上げ道路ができて、私が今撮影している沿岸部の風景は、一変するでしょう。そこに立った時に、私は何を考えるか。これから私が撮ってゆく写真は、自分の中でのそれに対する答えだと思います」

高橋さんはそう答えて、微笑みました。


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髙橋さんが撮影した旧高砂村の風景は、高砂市民センターにも常設展示されています。また10/25、26の両日に催される、開設20周年記念「高砂市民センターまつり」でも、20年前の集落の記録写真が展示される予定です。

震災後の報道写真や広報誌で、幾たびもお名前を拝見していた髙橋さん。
今回は、その髙橋さんに、直接お話をお伺いすることができました。

髙橋さんは今、被災地の“未来”を、写真に収めようとしています。
「タイポロジー」という表現手法を用いて撮影された復興。髙橋さんは今、大学で撮影技術を学びながら、来年の卒業制作に向け、作品をまとめています。それらの作品は、来年3月に東京のサロンでも展示される予定だそうです。

無理を言って見せていただいたその中の1枚に、心を動かされました。災害を乗り越えて進む、被災地の“未来”が写っている。私は、そう感じました。

いつの日か、その写真を、ココロプレスで最初に紹介したい。
そう思いながら、髙橋さんの事務所を後にしました。

(取材日 平成26年8月5日)