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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年9月7日日曜日

2014年9月7日日曜日10:45

ザーリャです。
稲刈りを終えた水田、集落の小道、水田に点在する家屋敷、耕された庭先の畑。
一切の人の姿もなく、ただ淡々と、あるがままの風景を切り取った膨大な数の写真。
なぜ、この写真を撮ったのだろう? と思うほどに、「ありふれた」風景ばかりです。

 昭和60年(1984)秋 仙台市高砂の田園風景(撮影:髙橋親夫氏)
しかし、気が付くこともあります。一枚一枚見通しがきく場所を選び、人や車が写り込まないように、丁寧に撮影されていること。そのため、どの風景にも奥行きがあり、穏やかな静けさに満ちています。

「開発によって、ふるさとの風景が消える」
先祖が耕し、自分を育ててくれたふるさと、旧高砂村。その地への惜別の思いを胸に、30年にわたって、ただ一人集落を記録し続けた人がいます。

「写真を見ると、その時自分が何を考えていたのか分かります」
そう語る髙橋親夫さん

七北田川のほとり、宮城野区高砂に住む髙橋親夫さんです。

旧高砂村とは、仙台平野を流れる七北田川の河口部から、右岸と左岸に広がる地域。現在の宮城野区岡田・蒲生・田子・中野・福室がその地域に当たります。かつては、小島のような居久根が田園に点々と浮かぶ、美しい水田地帯でした。

「撮影した写真は膨大な数です。実は、私自身も正確な数は分からないのです」
髙橋さんは微笑みながら、記録に使用した「ポジフィルム」の見本を見せてくださいました。光にかざすと、小さな枠の一つ一つに、秋の田園風景が見えました。

平成26年(2016)年8月 冒頭の田園風景から32年がたった現在の様子。
同じ場所から、同じ方角を撮影したもの
30年にわたって撮影された、大規模開発以前の旧高砂村の風景。その記録は平成20年に仙台市博物館に収蔵されました。

失われた風景。震災以前の記録
それから3年後の平成23年3月11日。
髙橋さんの記録は、東日本大震災の発災によって、さらに特別な意味を持つものとなりました。撮影地である旧高砂村の沿岸部に大津波が到達したのです。蒲生では町そのものが、地図から消えました。

震災以前の地域の様子をくまなく撮影した髙橋さんの記録写真。それらは今、復興への都市計画やまちづくりの基礎資料として、また防災研究・対策・教育の観点からも貴重な資料とされています。

最近では、誰もが視覚的に、客観的に被害状況を把握することができる「定点観測写真」として、使用されるケースが増えています。

平成13年(2001)4月22日 南蒲生専能寺(撮影:髙橋親夫氏)

平成25年(2013)年7月 震災後に、同じ地点から
(撮影:都市デザインワークス)
また、髙橋さんの写真は、津波ですべてを失った住民の心に、安らぎをもたらしています。
唯一残されたふるさとの姿。写真が現地で展示されると、口づてにそれを聞いた人々が、次々と会場を訪れました。
郷愁は、時に人を癒し、新たな歩みへの活力を与えています。

髙橋さんは、今、写真に何を思うのでしょうか。

平成13年(2001)4月 被災以前の南蒲生集落の小道
(撮影:髙橋親夫氏)
ふるさとへの別れの気持ちだった
昭和59年(1984年)の春。
「農家だった我が家に、農協から一本の電話がありました。『来年から、種籾を注文する必要がなくなる』というものでした。つまり、『もう米作りができなくなる』ということです。『ああ、いよいよ区画整理工事が始まり、田んぼも畑も無くなるのか』と。」

髙橋さんの家は宮城野区高砂の地で、代々農業を営んできました。当時、その高砂地区でも、大規模な「高砂地区土地区画整理事業」が計画されていました。

「新しいものを作るという事は、古いものを壊すこと」。
建築士でもある髙橋さんは、その意味を、誰よりもよく知っていました。自分の仕事は、その現場に立ち会うこと。しかし、「いざ自分のふるさとが無くなる」と思うと、髙橋さんは「たまらない寂しさを感じた」と言います。

「長年住んでいた土地への別れの気持ち。その一つの行為が、私にとって『記録をする』ということでした」

昭和59年(1984)の秋。髙橋さんは一人、カメラを携え、集落を歩き出しました。
建築現場で用いる記録手法に習い、地図上に撮影地点と方角を正確に記入しながら、一枚一枚と撮影を重ねていきました。10年たったら、整理して皆に見せようと心に決めて。

「当たり前の風景の記録に、わざわざ時間とお金をかける。当時はなかなか理解してもらえませんでした。でも、シャッターさえ押せば、写真は撮れます。だから、私がやればいい」

高砂土地区画整理事業が始まって10年が経過したころ、高砂と隣接する蒲生・中野地区でも、仙台港背後地の区画整理が始まることになりました。「写真は、その土地を知る人間が撮るのが一番良い」。そう考える髙橋さんは、蒲生・中野地区へも範囲を広げ、撮影のために通い始めました。

「せっせと通って撮影を繰り返していると、その土地への愛着が湧いてくるのです。その思いをどんどん自分の中に溜めながら、失われる風景を撮影していきました」

平成13年(2001)4月 南蒲生(撮影:髙橋親夫氏)
髙橋さんの記録写真を見た時に感じる、穏やかさや静けさ。それは、ふるさとへの惜別の情から生まれているのかもしれません。

ひとり黙々と記録を撮り続ける髙橋さんの姿は、やがて地元紙などでも紹介され、写真の存在も世間に認知されるようになりました。平成20年、こうして残された膨大な数のオリジナルのデータは、仙台市立博物館に収蔵され、永年にわたり保存活用されることになりました。

昭和60年(1985)春 宮城野区高砂(撮影:髙橋親夫氏)
平成26年(2014)8月 29年がたった同地点から

「60歳までに、撮りためた写真を整理して、一段落させる」
そう考えていた髙橋さんにとって、記録が博物館に収蔵されたことは、大きな節目となる出来事でした。

「博物館で受け取ってもらえると聞いた時には、本当にうれしかったですね。個人で持つべき類の資料ではないと考えていましたから。それに、そもそもは、誰も見向きもしない写真でしたからね」

37歳から始めたふるさとの記録。その活用の道も決まりました。
「私の役目は終わった。もういいだろう」。
そう感じたとき、高橋さんは57歳になっていました。

それから7年が経った平成23年3月11日。東日本大震災が発生します。

津波によって変わり果てたふるさと旧高砂村の姿。
髙橋さんは、再びカメラを持ち、心の中で祈りながら、瓦礫の中を歩き始めました。

(後編へ続く)

(取材日 平成26年8月5日)