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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年8月5日火曜日

2014年8月5日火曜日23:30
御釜神社での「藻塩焼神事」の祭礼日、報告会が開かれました。
御釜神社の鳥居正面に建つ「ゑびや旅館」
ザーリャです。
東日本大震災とその津波によって、大きな被害を受けた宮城県塩竈市。
その地にあって、明治より4度の津波を経験した “塩竈の記憶”、「ゑびや旅館」(えびやりょかん)。
市民が自らの手で「買い取る」ことで、解体から守られました。
その活動の中心を担ってきたのが「特定非営利活動法人NPOみなとしほがま」(以下、みなとしほがま)です。

「ゑびや旅館」の保存活動の取り組みは、ココロプレスでも紹介しています。

解体の危機から、歴史的建造物を守る
[前編]塩竈の被害と「ゑびや旅館」の取得活動の道のり(2014/6/9)
[中編]市民参加による、取得後の「ゑびや旅館」保存活用の記録(2014/6/16)
[後編]塩竈の歴史的建造物と「ゑびや旅館」公開日(2014/6/20)
震災前に撮影された「ゑびや旅館」。
旅館廃業後、「松亀園」の名称でお茶の小売り店舗として使われていました
(写真提供:NPOみなとしほがま)
 「ゑびや旅館」は、塩竈市本町(もとまち)の御釜神社門前にある木造3階建の建造物。
慶応3年(西暦1867)の塩竈大火後すぐに建造され、明治天皇の東北巡幸(明治9年:西暦1876)の際には、大隈重信(おおくましげのぶ)など政府要人の宿舎となりました。
東日本大震災では津波による浸水被害がありましたが、その後の耐震診断では「耐震補強により十分に活用可能」との結果が得られています。

保存された「ゑびや旅館」が、今後どのようによみがえるのか。地元の塩竈でも、その計画に関心が集まっていました。
先月5日、みなとしほがまがこれまでの活動を総括する報告会を開催、今後の「ゑびや旅館」の活用計画が明らかになりました。

会場は、保存活用の舞台でもある「ゑびや旅館」の2階大広間。市の内外から90人を超える参加者が集まりました。
報告会では、みなとしほがまと共に保全活動に携わる斎藤善之・東北学院大学教授、高橋恒夫・東北工業大学教授の両氏の講演と、伊藤則子・風土建築文化研究室代表による建物調査の報告がありました。

それらを受け、最後に髙橋幸三郎・NPOみなとしほがま副理事長が、今後のゑびや旅館の活用計画を説明しました。

今回は「ゑびや旅館の今後の活用について」、髙橋幸三郎さんの報告を、抜粋してご紹介します。

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「ゑびや旅館の周辺は、観光客が回遊できる一番の場所になります」
そう語る髙橋幸三郎・NPOみなとしほがま副理事長
「市民力の象徴」として
「まずは、ゑびや旅館を震災からの復興を目指す『市民力の象徴』として、また『まちの歴史を物語る貴重な市民の財産』として位置付けて、活用を進めます」

髙橋さんは、冒頭で保存活用の基本方針をこのように説明しました。

復興を目指す「市民力の象徴」。
慶応3年(1867)2月6日、塩竈大火が発生し、町の80%が灰燼に帰しました。その後間もなく建造されたと考えられるのが、この木造3階建ての威容を誇る「ゑびや旅館」でした。
髙橋さんは「建造当初の真新しいゑびや旅館も、当時の塩竈の『復興の象徴』だった」と考えています。

また、東日本大震災では、解体までの猶予が2カ月という限られた時間の中で、地元銀行が融資に協力し、市民によって建物の買い取りがなされました。

「走りながら、考えた」という「市民力」の決断によって残されたゑびや旅館。
震災を乗り越えたこのエピソードも、塩竈の「市民力」を示す歴史として語り継がれるでしょう。

明治33年(西暦1900)の銅版画に描かれる「ゑびや旅館」
当時の建物の雰囲気を伝える、重要な資料です
「まちの記憶装置」
これらの方針を踏まえて、髙橋さんは「ゑびや旅館」に備える機能を次のように説明しました。

「ゑびや旅館そのものが、宮城や塩竈の歴史文化を物語る貴重な遺産。建物の外観を建築当初の姿に復元し、東日本大震災などからの復興の姿を記録する『まちの記憶装置』とします」

髙橋さんは、ゑびや旅館自体が、明治三陸地震津波(西暦1896)、昭和三陸地震津波(西暦1933)、チリ地震津波(西暦1960)、そして東日本大震災(西暦2011)と、4度にわたる震災と津波の洗礼を受けてきたことを忘れてはいけないと言います。

「そのような建物を、私たちが何とかして残さなければならないのは、建物そのものが『まち記憶装置』としての役割を持っているからなのです」

人々が建物を見ながら、さまざまな「記憶」をよみがえらせ、それについて語り合う。

「ゑびや旅館は、人々の記憶の語らいの場を生む、かけがえのない存在です」
髙橋さんはそう語りました。
「船底天井」の下で、報告が行われました
「まちかど博物館」
今回の報告会が行われたゑびや旅館の2階部分。ここは塩竈の歴史文化を紹介する資料と、東日本大震災の展示を常設する、『まちかど博物館』になります。

みなとしほがまでは、これまで塩竈に関連する歴史資料の収集や、津波被害を記録・出版する取り組みも行ってきました。

記憶と記録を残す~写真集 塩竈 東日本大震災の記録(ココロプレス2012/10/29)

また、天井画が残存する3階部分については、特に趣向を凝らした江戸時代の遊里遺構として貴重なため、内部意匠を復元し、展示する計画です。天井に残存する板絵の修復や保存処理については、今後も専門家を交えて、慎重に検討を重ねる予定だと言います。
3階「桜の間」の天井の板絵。
今後の修復の方法が検討されています
(写真提供:NPOみなとしほがま)
「学校教育などでの活用」
みなとしほがまでは、ゑびや旅館を観光客だけではなく、地元の子どもたちへの教育にも活用してほしいと考えています。

市内の多くの子どもたちが、ゑびや旅館を訪れています
(写真提供:NPOみなとしほがま)

すでに塩竈市内の小学校では、「ゑびや旅館」を総合学習の場にするケースも増えています。報告会の3日前にも、市内の小学校3年生53人が見学に訪れていました。

「度重なる災害にも耐え、このように残った文化財に触れてもらう。そこで、子どもたちにさまざまなことを感じてもらいたい」
髙橋さんはそう願っています。

兵庫県からの義捐金「津波被災地域交流拠点整備事業」に採択される
また、兵庫県の皆さんからの義捐金を原資とした宮城県の助成金、「津波被災地域交流拠点整備事業」に、みなとしほがまの事業が採択されたという報告がありました。

この助成金1,000万円を活用して、1階部分の耐震補強工事や、外装崩落危険部の補修、雨漏りなど、急を要する工事を行えることになりました。

しかし、建物全体の修繕費用として、その他に2,000万円の費用が必要です。髙橋さんは「引き続き募金活用の継続や助成金などを活用して、費用の確保を図っていきます」と、さらなる支援を呼び掛けました。

電柱を挟んだ建物右側の外装は、昭和初期に取り付けられたもの。
復元ではこれらを取り払い、建築当初の形に戻す工事が必要です
「これから塩竈」の拠点に
今年の11月23日、同じく本町にある旧塩竈市公民館に「杉村惇美術館(仮称)」が開館し、ゑびや旅館と並ぶ塩竈市の新たな文化・観光拠点になる予定です。また、「海商の館」旧亀井邸を訪れる観光客の数も、回復してきています。

髙橋さんはこの流れから、「ゑびや旅館の周辺が、観光客が回遊できる場所として、塩竈市内でも一番良い場所になりつつある」と感じています。

「さまざまな知恵を絞りながら、何とかめげずにコツコツと、私たちの『身の丈に合った』ゑびや旅館の活用を考えていきます」
髙橋さんの報告を締めくくる言葉に、ゑびや旅館の大広間は温かな拍手で満たされました。

深く傷ついた震災の傷跡から、少しずつ、少しずつ、新しいまちが育とうとしています。

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東園寺にある塩竈大火の犠牲者を弔う「焼死塔」。
仙台藩は塩竈の被害を哀悼し、焼け跡で供養を行いました
(取材を終えて)
震災を機に塩竈の街が、いま、大きく変わろうとしています。みなとしほがまによる「ゑびや旅館」の保存活用の取り組みは、その象徴的なものと言えるでしょう。市民の皆さんが自らの意思と力で、思い描く「まち」を作るために奮闘しています。
繰り返す災害から、その度に何度も立ち上がってきた塩竈の人々の強さ。
それは今回の津波でも失われることはありませんでした。

みなとしほがまの取り組みは、これからもご紹介していきます。

(取材日 平成26年7月5日)