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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年8月30日土曜日

2014年8月30日土曜日11:32
災害危険区域に指定された荒浜地区。かつての建物の基礎だけが残されています
ザーリャです。
仙台市若林区の荒浜地区。
地区の東側は仙台湾の砂浜に接し、貞山運河の深い松林と水田に囲まれた、半農半漁の集落でした。
津波によって町が失われるまで、ここに約2,700人の人々の営みがありました。

震災後、一帯は津波災害危険区域に指定され、住居として使用する建造物の建設が禁止されました。
江戸時代より続いた集落跡は今、見渡す限りの夏草に覆われています。仙台市の中心部まで車で30分という地にありながら、聞こえてくるのは、ただ波と風の音だけです。


7月21日、その一角に、多くの人が集まっていました。
開催されたのは「荒浜アカデミア」。現地再生を願う住民グループ「荒浜再生を願う会」と、それを支援する有識者等によって開かれる公開討論会です。

その目的は、地域住民と多様な専門家とが議論を重ねながら、「真の創造的復興とは何か」を探り続けること。
今回が第2回目の開催です。

「積み上げられた議論を、政策提言にもつなげたい」
そう語る新井信幸さん

開催に先立ち、「荒浜アカデミア」の発起人の一人である新井信幸・東北工業大学准教授は、「現地再生を考える方々が、『今』抱えている課題に対して、出席した専門家から、さまざまなアドバイスいただく機会にできれば」
と話しました。

なんとかして、故郷を残したい
続いて、運営委員長である中島敏・東北工業大学教授が、震災以前の荒浜の様子について話しました。荒浜で生まれ育った中島さんは、先の津波によって、生家と多くの大切な人々を失いました。

かつての町の様子を解説する中島敏さん。
先祖が荒浜に移り住み、中島さんが8代目になります

震災発生から50分。荒浜地区に高さ10mの津波が到達しました。
住民のうち340人は、荒浜地区で唯一の「高台」であった荒浜小学校に避難しました。津波は小学校の2階天井部に達し、学校に避難できなかった住民186人が犠牲になりました。

「震災前にあったこの広大な松林では、マツタケやハツタケなど、いろんなものがたくさん取れました。自分で季節のものを採って食べるのは、子どもの時から、とても楽しいものでした」

中島さんは、震災前の集落の写真を紹介しながら、失われた町の様子を語りました。

アカデミアの会場となった貴田喜一さんの敷地。
多くの写真が展示され、荒浜を訪れた人々が足を止めています

「荒浜では、集落の皆が協力し、砂浜から『エグリガッコ』と呼ばれる木造船を出していました。船を浜に引き上げるのも人力。私が子どものころには、浜にはいつも100人ぐらいの人がいました。『赤ふん姿』の私のおじいさんが、『船を出すぞー』と号令を掛ける姿を、今でも思い出します」

集まった地元の方々も、時には中島さんの話に参加し、時には懐かしそうにうなずきながら、失われた在りし日のふるさとの姿を思い起こしていました。

「この地域を、なんとか復活させたい。しかし、なかなか思うようにはいきません。それでも、何とかしてふるさとを残したい。それが今の私の気持ちです」

中島さんは、荒れ地となってしまった集落の跡地を見つめながら、そう言葉を結びました。


私の帰る場所、荒浜
「津波が海底のヘドロをさらって陸に上げました。そのために、海底がきれいになったんです。今ではきれいな海に住むナマコ、それにワタリガニなどの甲殻類が非常に増えて、近年にないぐらい獲れるんです。唯一、シャコエビだけは、津波で子どもが流されたようで、まだ増えていませんね」

現地での再建を望む佐藤優子さんは、目の前に広がる穏やかな海の「現在」をそう話しました。

自宅の跡地で話をする佐藤優子さん
跡地に小さな畑を作りました

草が生い茂る荒浜の集落の跡地。そこにトタン作りの青い番屋と、赤いプレハブがポツンと建っています。どちらも80歳になる優子さんの父、吉男さんが手作りで建てたものです。番小屋の傍らに、漁師仲間と世間話をしながら、網の繕い作業に精を出す吉男さんの姿もありました。

吉男さん手作りの番小屋。漁の道具がびっしりと収められていました
佐藤さんの所有する船は「大吉丸」。
「すべてが『吉』となるように」との願いから、船名には縁起の良い言葉を使うのが漁師のしきたりです。

アカガイの漁では、仲間と共に出漁し、日々移動するアカガイの居場所を経験から探し出し、小型底引き網で力を合わせて漁を行います。水揚げしたアカガイは、豊漁だった家も、取れなった家もすべてを均等に分け合います。

「流された船を新造し、新しい生活を始めるためにも、お金が必要です。もし不漁だからと言って無理な漁を行えば、命にかかわる事故になります。それを防ぎ、お互いの生活を助け合う。漁師の伝統の知恵ですね」

番小屋の中には、漁で使う資材でいっぱいでした
「ここ荒浜は景色がいいし、空気がいいし、青空があります。家を建てるだけなら、自分の土地があります。私の帰る場所は、ここ荒浜だと思っています」
仮設住宅で生活するようになり、佐藤さんはそのことを一層強く感じています。

しかし、知り合いが現地再建を諦め、「別の土地に新しい家を買った」と聞くたびに、年老いた両親が焦る様子を見てきました。考えの違いから、今でも家族の喧嘩がたびたび起こると言います。しかし、それでも「荒浜に戻りたい」という佐藤さんの気持ちが変わることはありません。

佐藤さんの敷地に残る塀。母屋の跡には畑が作られていました

「やはりここで生活をして、おじいさんとおばあさんを見送りたい。それに私も、ここで見送られたいのです」

何よりも大切なのは、、心と体が求める、慣れ親しんだ場所があることだ。優子さんはそう感じています。もちろん津波は怖い。でも、「来たらまた逃げればいい」と。

「私たちには生まれ育った土地があります。移りたい人には移転の支援を、戻りたい人には、戻るための支援をしてほしいのです」

かつて家族同様だった集落の人々も、「今はバラバラになってしまい、個人情報保護の考えが広まったことから、誰がどこにいるのかすらも知ることができない」と、佐藤さんは言います。

今は網の修繕に忙しい佐藤吉男さん。
手前はアカガイ漁の底引きで使用する「マンガン」という道具

お父さんの吉男さんが建てた番小屋には、毎日誰かが訪ねて来ると言います。この日も、漁師仲間のおじいさんが吉男さんのもとを訪れ、楽しそうに世間話に花を咲かせていまいした。
このおじいさんも、間もなく生まれ育った荒浜を出て、他の地域へ移るのだと言います。

「もうこれ以上、私たちのように泣いてほしくないのです。自分の家、土地、地域のつながり、それを壊すことのないような復興を、私たちは心から望んでいます」

楽しそうに話すおじいさんの後ろ姿を見ながら、佐藤さんは言いました。


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減災の手立てと、人々が幸せに暮らせる復興。荒浜ではその両立が求められています。
住民の皆さんは、故郷を残すために、さまざまな再生へのアプローチを模索しています。

引き続き、荒浜の皆さんの取り組みをご紹介していきます。

(取材日 平成26年7月21日)