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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年8月7日木曜日

2014年8月7日木曜日11:22
ザーリャです。
人々の震災の記憶を「記録する」取り組みが、塩竈市で進んでいます。
市民が参画して作り上げる、「塩竈市東日本大震災記録誌」の編纂です。
市民の視点を織り込みながら、後世に残すべきものを共に考え、共に作り上げる取り組みです。

ココロプレスでは、以前にも事業の紹介をしてきました。

2014年7月10日
塩竈6,000年の歴史を聞く。「第一回塩竈市東日本大震災記録誌ワークショップ」[前編](塩竈市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/07/6000.html

2014年7月14日
東日本大震災と塩竈~震災と復興の歴史~ 「第一回塩竈市東日本大震災記録誌ワークショップ」[後編](塩竈市)

今回は、その第2回目となるワークショップをご紹介します。

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今回のテーマは、「アナタの取った3.11を見せてください。」
塩竈市内の会場に、「3.11」の写真を持参した皆さんが集まりました。
ワークショップを担当する佐藤正実さん(NPO法人20世紀アーカイブ仙台)は、冒頭で次のように語りました。

「震災時の記録写真を皆さんと見ながら、誰がどんな状況で写真を撮ったのか、そしてまた、その時はどんな生活だったのかなどを、話していただきます。撮影当時の様子を話し合って、記憶の共有ができればと思います」

参加者の皆さんは、写真を通して自らが経験した「3.11」を語りました。

会場にはプロジェクターが準備され、持ち寄られた写真が一枚一枚映し出されました。それに合わせて、写真の撮影者が撮影状況を解説します。持ち寄られた写真もさまざまでした。被害の様子を撮影したもの、復旧に取り組む人々のスナップ、被災地の季節の移ろいを写したものなど、塩竈に暮らす市民の皆さんの「視点」や、その時の心情が反映されたものばかりでした。

映し出される写真に、会場からは共感や驚きの声、時には撮影者への問い掛けもありました。
今回は、その会場での「声」を中心にご紹介します。
その時、市民は
塩竈市は東側を松島湾に接し、港を中心に発達した歴史のある市街地と、山を切り開いて作られた新興住宅地から成り立っています。岩盤を造成した山側では、地震の揺れが比較的小さく、埋め立てによって作られた市街地を含む海岸部では、揺れが大きかったようです。

・「揺れが始まり、とっさに時計を見ました。揺れが3分弱もの間続きました。こんなに長い地震は初めてでした」

・「津波が来ても、『堤防をちょっと乗り越える程度かな』と思っていました」

・「津波はあると思ったが、そんな大それた津波だとは思いませんでした」

・「マリンゲートに向かっていたが、直感的に『津波が来る』、そう感じて引き返しました。チリ地震津波の時の光景が、
頭をよぎりました」

同じ塩竈市内にあっても、「あまり揺れなかった」山側と「家が倒れると感じた」海側では、市民の津波の予想に大きな差がありました。また、チリ地震津波(西暦1960)の経験の有無によって、津波に対する対応に大きな違いが出たように感じました。
津波の到来
塩竈市に到達した津波の高さは、浦戸諸島の島々で8m、本土で4mに及びました。しかし、通信が不通だったために、海から離れた高台の市民の多くは、市内への津波の到達を知りませんでした。

・「地震後に塩竈神社に行って、その時初めて、街に津波が来た事を知りました。『これは大変なことになった』と、その時になって気がつきました」

・「『万全だ』と思われた防波堤を、津波は乗りえてきました。『人の力では、どうしようもならない』と感じました。漁協の桟橋も流されました。考えられなかった事が起きていました。」

・「マリンゲートに行こうとしましたが、瓦礫と冠水で行くことができませんでした。初めて津波を見て、そのすさまじさに唖然としました。絶望感で、その場で立ちすくみました」

・「震災後2、3日後に高台から海岸通りに行きました。(被害は)酷かった。見ているだけで落ち込みました。悲惨、その一言でした。」

・「チリ地震津波で、津波の恐ろしさを憶えているので、家族には日頃から『地震が大きかったら、高台へ逃げろ』といつも言っていました。だから、連絡が取れない家族も『きっと大丈夫だろう』と自分に言い聞かせました」

数キロメートル先が津波にのまれていることを、多くの市民は気づきませんでした。同様に、多くのSOSも伝わりませんでした。塩竈の人々は、口づてに、沿岸部の被害や、浦戸諸島の壊滅的な被害状況を知り始めます。
市民が見た被害
塩竈市は、津波により面積の約22%が浸水し、震災での市民の死者は65人(震災関連死も含む)に上りました。

・「津波は、松島湾に浮かぶ島と島の隙間を『縫うように』して押し寄せました。港を守っていた3mの防波堤を乗り越え、桟橋と、200艘近い船を流しました。後で発見された船は、そのうちの僅か4艘だけでした」

・「桂島では、津波で家が流されて、ごちゃごちゃに押し寄せられていました」

・「七ヶ浜に行った時に、自衛隊が長い棒を使って不明者の捜索していました。『あのようにして、人を探しているのだ』と聞いて、とてもショックでした。目の前で遺体を捜索する光景を見て、(事の重大さが)だんだんわかってきました。最初は目の前の現実をのみ込むことができませんでした。」

・「震災から2カ月近く後に、一部復旧した仙石線に乗り、東塩釜駅で降りました。すると、駅前に津波で流されてきた船がありました」

・「津波が来ただけではなく、地震で地盤が大きく沈下しました。今年いっぱいかけて、復旧のために『かさ上げ』を行う予定です」

今回の皆さんのお話で強く印象に残ったのが、8mの津波に襲われた浦戸諸島の島々の被害でした。参加者の皆さんの多くが、肉親の安否を知るために、または支援のために、孤立する島々へ、さまざまな手を尽くして渡ったと言います。

「島に渡る市営汽船に乗るにも、優先順位が決められていました。優先順位は、島民、災害支援者、親族の順番でした。
それぞれが、さらに細かく決められていました」
島の支援に当たった参加者は、当時をそう振り返りました。
町の様子と生活
ある参加者は「震災の年の桜を見て、どう感じましたか?」と問われ、こう答えました。
「震災の日から、毎日がその日その日を生きることで、もう精いっぱいでした。そのせいでしょうか、あの年の桜の記憶が、
私にはまったくないのです」
会場にいた皆さんが、無言でうなずいていました。

・「自衛隊や、警察の車両が異様に多かったのを憶えています。復興の車両とは別に、警備のための車両です」

・「自衛隊のヘリコプターが、浦戸諸島から救助した人々を月見ケ丘小学校に下していました。その人たちから島の情報を聞いて、行方のわからない桂島の祖父を探しました」

・「島にいる肉親の安否が分かりませんでした。ひょっとすると市内の避難所にいるのかもしれないと思い、市内の避難所を毎日探し歩いていました」
・「『ゴールデンウィークまでには営業を再開したい』と、復旧に向けて頑張る商店もたくさんありました」

・「ガソリンも、食べ物も、水も、数時間は並ぶのが普通でした。『待つ時間』がとても多かったです」

・「商店の営業・休業は、『人が並んでいるか、並んでいないか』で判断しました。震災直後、食料品を無料で配ってくれた
お店も多く、本当に助けていただきました」

・「津波によって伐採された柳の木の根元から、芽が出ているのを見ました。その時に、『芽が出ているな、すごいな』と強く感動しました。津波に飲まれて幹を切られても、また新たに萌えてくる。生命の力を感じました」

震災直後、被災地に電池を届けていた参加者の方がいました。
「宅急便は完全に止まっていましたが、郵便局の『レターパック』の配達だけは、一度も止まりませんでした。それで全国から、避難所で不足していた電池を送ってもらいました。一度で届く量は僅かな量でしたが、それでも8,000本も届きました。」

全国から封筒で届けられた小さな支援は、「ともしび」となって避難所の闇を照らしました。

◆「未来の塩竈に生きる人たちに伝えたいこと」
ワークショップの最後に、参加者の皆さんが「未来の塩竈の人々へ」のメッセージを記しました。


「自分でできることをすること」、「助け合うこと」、「食べ物は米・味噌・塩があればいい」 ── 震災後、自分で災害に備えることの大切さを感じました。

「逃げる」、「戻らない」── チリ地震津波の時に聞いた叫び声が、今も耳に残っています。知り合いは、高台に一度避難
したのに、物を取りに戻って、亡くなってしまいました。

「何をすればいいか、一覧表にする」── 3.11の経験を生かして、内容は単純に、やるべきことを箇条書きして確認しています。

「3日は自力で生きられるように準備する」── 救助が始まるまでの間に、自分の力で生きる準備をしています。

「子どもたち、若い人たちに伝えていく」── 揺れ始めた時に、自分は何をしたら良いのか分かりませんでした。震災の中身について、語り伝えることが何より大切だと思います。
「準備と『伝えること』を繰り返して、忘れない」── 本震の後、次に来る余震に備えていたので、4月7日の震度6の余震では冷静に対応できました。

「高齢者が逃げられる準備を」── 塩竈は平地が少ない。どうすれば高齢者が高台に逃げられるのか、対策の必要を感じます。

「日頃から地域に目を向ける」── 自分は中学生の時に塩竈に来ましたが、地理が複雑で、町をよく知りませんでした。「知らない」でいると、行動が後手後手に回ってしまいます。日頃から「地域を知る」、「地理を知る」ことが大切だと思います。

「どこに誰が住んでいるか、ネットワークを作っておく」── 非常時に1人でいることは不安です。お互いを守るためにも、町と周りの人たちを知るということが大切です。

「町の意識をどう培って再生するか」── 町は作り直すことができますが、人の「意識」を作り直すのは難しいと思います。意識があれば避難、助け合いもできる。住民も自らの問題として考えるべきだと感じています。

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(取材を終えて)
皆さんの写真を拝見し、当時の話を聞きながら、「そうだった、私もそう感じた」という感覚が何度もよみがえりました。自分の中の震災の記憶が、他の記憶と同様に例外なく薄れています。
震災当時の様子を話し合うことは、「記憶の共有」のみならず、自らの薄れゆく震災の記憶を「掘り起こす」作業でもあることを強く感じました。

塩竈市震災記録誌の取り組みについては、引き続きご紹介いたします。

(取材日 平成26年6月29日)