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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年7月14日月曜日

2014年7月14日月曜日7:06
津波によって運ばれた砂の標本。木村さんが被災地や発掘現場で集めたもの
左から2番目は十和田火山の大噴火(西暦915)によって仙台平野に降り積もった火山灰

ザーリャです。
塩竈市では、市民が参加した震災記録誌の編纂が始まっています。
その第一回目のワークショップが、6月15日に塩竈市内の「ふれあいエスプ塩竈」を会場に開催されました。
会場には定員を超える30人以上の市民の皆さんが集まりました。

ココロプレスでは、以前この事業の紹介をしています。

2014年6月5日 木曜日
「求む!あなたの記憶と記録!!塩竈市東日本大震災記録誌ワークショップ開催!」
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7286.html

2014年7月10日 木曜日
塩竈6,000年の歴史を聞く。「第一回塩竈市東日本大震災記録誌ワークショップ」[前編](塩竈市)
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/07/6000.html

第一回目となる今回のワークショップのテーマは、“塩竈の歴史を知る”ことです。

テーマ1 「塩竈の歴史を聞いてみよう、考えてみよう。」
テーマ2 「東日本大震災と塩竈~震災と復興の歴史~」

今回はそのテーマ2のワークショップの概要をお伝えします。


講師はテーマ1に引き続いて、仙台市教育委員会文化財課の木村浩二(きむらこうじ)さんです。

木村さんは震災の1年前の新聞記事を見て、「平安時代の地震や津波の記録から、防災をテーマにした話ができないだろうか」と考えたそうです。発掘調査成果の検討や文献の調査を進め、資料がまとまりつつあった平成23年3月11日、東日本大震災が発生しました。

木村さんは「もっと早く資料をまとめていれば、何か役に立つこともあったのでは」との思いに駆られたといいます。

震災から2カ月後、まだ余震が続く状況の中で、木村さんはまとめた資料を公表しました。あまり知られてこなかった震災の歴史は、復旧を模索する被災地でも大きく報道され注目を集めました。

「やっと生まれ故郷の塩竈でこの話ができる」

塩竈で生まれ育ち、昭和35年(西暦1960)のチリ地震津波を塩竈で経験した木村さんは、今回の塩竈市の震災記録誌の依頼を受けて、そう思ったそうです。

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今回のテーマは、「東日本大震災と塩竈~震災と復興の歴史~」。さまざまな視点から震災の歴史を振り返り、「私たちが後世に伝えるべきこと」を考えました。

弥生人は、津波で水田を放棄した
2千年前の弥生時代、仙台平野ではすでに米作りが行われていました。太白区の富沢、若林区の荒井地区などで当時の水田跡が見つかっています。

弥生時代の水田は、土木技術がまだ未熟だったことなどから、一枚の面積は非常に狭く、一辺がせいぜい数m。『家の大広間』程度の広さしかなかったと言います。

「若林区新井で見つかったその弥生時代の水田が、一面に白い海の砂で覆われ、耕作が放棄されていました。
大津波が仙台平野に押し寄せたのです」

古墳時代まで、この地で稲作が再開されることはありませんでした

木村さんが紹介したのは、仙台市若林区の沓方遺跡(くつかたいせき)。仙台東部道路の仙台東ICに隣接し、当時の海岸線からの距離は2km。仙台市教育委員会の調査によって、この弥生時代中期の津波が、東日本大震災の津波と同様、かなり内陸部まで押し寄せたことが分かりました。

「海水はさらに内陸部まで到達したでしょう。この沓方遺跡の西方1kmにも弥生時代の遺跡がありますが、そこでは人の生活がいったん途絶えています。今で言う『高台移転』をしたのかもしれません」

木村さんによれば、宮城県沿岸部で行われたボーリング調査によって、3,000年以上前の土層からもさらに『分厚い』砂の層が確認されているそうです。

想像を超える規模の津波が、過去に何度も沿岸部を襲っていたのです。


貞観の地震津波---「山に登らんとするも及び難し」
平安時代の歴史書で皇室の公式記録に『日本三代實録』があります。
その、「貞観11年(西暦869)、5月26日」には、国府多賀城を襲った大地震と津波の様子が記されています。

記録はおおよそ、次のような内容です。

まるで昼間のように光が流れ、人が立っていられないほどの揺れが起こりました。
建物の倒壊や地割れにより死者も出て、国府多賀城は壊滅的な被害を受けました。
そこに雷のような音があり、津波が海沿いの平野部を襲い、国府のすぐ近くまで押し寄せました。
海岸平野部は海と陸地の境が分からなくなり、大海原のようになりました。
船に乗って逃げることも、高台へ上ることもできず、1000人程の人々が溺死しました。
財産も田植えを終えたばかりの稲も、すべてが失われてしまいました。

「これらの描写は、被害状況が総括的に集約される前の、地震直後の生々しい国府多賀城周辺地域の様子を記したものでしょう。記録は短いものですが、3年前の東日本大震災の状況とまったく変わらない光景が、平安時代のこの記録に表現されています」


◆平安時代の復旧・復興---中央政府の素早い対応
その3カ月後の9月7日。政府は紀春枝(きのはるえだ)という人物を、新設した「検陸奥国地震使」の役職に任命し、地震の被害調査や復興対応を命じます。そのすぐ1カ月後の10月13日、清和天皇が自ら、被災地の人々の分け隔てない救済を命じています。

「これらの施策勅命が、たった4カ月の間に矢継ぎ早に行われています。都と陸奥国府多賀城の往復に馬を使っても数十日もかかることを考えると、多少の誇張や潤色があったとしても当時の政府の迅速な対応には目を見張るものがあります」

また翌年の貞観12年(西暦870)には朝鮮半島から来ていた統一新羅の人々20人のうち、10人を陸奥国に配置。うち3人には瓦造りの技術指導をさせています。国府多賀城や、国分寺、国分尼寺といった国の施設の復旧に、「国が威信を懸けて取り組んでいたからだ」と木村さんは考えています。

「最近の調査で、仙台市の台原・小田原の丘陵地に、朝鮮と同じような文様の瓦を焼く窯場(与兵衛沼窯跡)が見つかり、それまでとは違った新羅系の文様の瓦が発見されています。記録にあるように新羅の技術者たちの応援を受け、国を挙げて復興に取り組んだ様子が、発掘でも裏付けられました」

歌に詠み継がれる、大津波の記憶
平安時代以降、多くの歌に詠まれた歌枕に「末の松山」があります。
その有力な推定地とされるのが、現在の多賀城市八幡地区の宝国寺の丘です。
木村さんもこの説を支持しています。

平安時代の歌人、清少納言の父親でもある清原元輔(きよはらのもとすけ)の歌にも、「末の松山」が詠み込まれています。

契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波こさじとは」(後拾遺和歌集)

(約束をしたはずなのに。お互いに涙に濡れた着物の袖をしぼりながら。
末の松山を波が越すことなどあり得ないように。決して心がわりはしないと)

“末の松山を越えて波が来ることはありえない”ということが、象徴的に歌われています。

「多賀城に大きな被害をもたらした津波でさえも、『末の松山を越えなかった』。そのことが広く都でも知れわたり、歌人たちの間で象徴的に使われていたのでしょう」
木村さんはそう語りました。

1200年後の東日本大震災の津波も、多賀城市の八幡地区に到達しました。
しかし、宝国寺の丘の下で津波は止まり、やはり「末の松山」を越えることはありませんでした。


地震と津波の「発生間隔」が見えてくる
仙台藩の記録である「伊達治家記録(だてじけきろく)」などによれば、江戸時代の270年間に、12度の地震津波の記録があることが分かっていました。これらに、発掘調査から判明している有史以前の津波、そして明治時代以降の記録を加えた時に、木村さんはある事実に気がつきました。

大地震の発生には一定の周期があり、必ず発生してきたということです。その間隔には2種類があります。一つは25~35年という短周期の大地震と、もう一つは400年・800年という長周期で発生する巨大地震です」

そしてもう一つ、木村さんは警告を発します。
大地震に伴う余震や誘発地震の危険性です。

本震の発生から3~5年の間まで、本震のマグニチュードより1ランク下の余震・誘発地震が発生しています。東日本大震災はマグニチュード9.0。1ランク下でも8.0です。阪神淡路大震災のマグニチュードが6.9ですから、阪神淡路大震災よりもはるかに大きな余震・誘発地震が起きるかもしれないのです。まだ気を緩めてはいけません」

木村さんによれば、明治29年(西暦1896)の明治三陸地震(マグニチュード8.2~ 8.5)では、5年間で10回の余震と2回の津波が発生しているそうです。

「私は地震学・地質学の専門家ではありませんが、歴史の断片事象を並べてみると、地震が一定の周期で来ていることがあぶり出しのように見えてきます。これで終わりということはないのです」

木村さんは参加者にさらなる注意を呼びかけました。

「現在も頻繁に地震がありますし、津波は必ずまた塩竈に来ます。災害時にいかに心構えを持って対応するか。それによって被害の大きさが変わります。いつでも東日本大震災のことを思い出して、安全な所へ逃げられるようにしておくことが大切です」

天災を防ぐこと―『防災』は難しくても、天災の被害を減らすこと―『減災』はできる。
木村さんはそう語りました。

京都の桜守「第十六代佐野藤右衛門」さんが植樹した「浪分桜」
津波が到達地した鹽竈神社「七曲り坂」の入り口に植えられました

記録し、語り合う。再び繰り返さないために。
25~35年周期で繰り返し起こってきた地震と津波。先人たちは被害が繰り返さないことを願って、被害にまつわる地名や津波碑、供養碑などを残しました。
しかし、東日本大震災の津波でも、再び多くの人命が失われてしまいました。

なぜ「記憶」は次世代に伝わらないのでしょうか。

木村さんは、それが「30年という世代交代のサイクルゾーンに関係する」と言います。

「天皇や大名などの在位記録を見ると、平均30年で代替わりを迎えています。両親の体験や記憶が、うまく子どもに伝わらない。おじいさんやおばあさんの記憶に至ってはなおさらです」

木村さんは、「体験や記憶を記録し、それについて話し合うことが何より重要だ」と言います。

「例えば、今日配布した私のレジュメも、そういった記録の一つです。今日も皆さん帰宅したら、夕食の時にでもご家族に
『こんな話を聞いてきた』と話をしてください。日常的な話題にしていく。地道なことですが、そういったことがとても大切なことだと思います」

塩竈市内には、津波到達地点であることを示す石碑が建てられました

建てられた津波碑は、いつしかその意味合いが忘れられていました。

「それを防ぐためには、定期的に震災を思い出したり、語り合う機会を作るしかありません。時が流れれば、確かに記憶は薄まるかもしれません。しかし、災害に対する意識が失われることはないはずです」

『温故知新』。木村さんが大学で恩師からいただいた言葉だそうです。

「今回の震災を経験した私たちは、この出来事を明日に伝えていかなければなりません。
古いことをきちんと認識して、これからの未来にその教訓を生かしていく。
皆さんが取り組む震災誌が、後世の人々に語らいの機会を生むことを願っています」

木村さんは最後にそう言葉を結びました。

「私にとっては、やはりこの言葉です」。そう話す木村さん

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木村さんの話をお聞きして、自分の地震に対する危機感すらも、いつの間にか少しずつ風化していたことを強く感じました。自覚することなく静かに、息をひそめて進む“病”ような風化。
家に帰り、私はカレンダーのすべての「11日」を赤鉛筆で囲みながら、あの夜に見た満天の星空と、刺すような寒さを思い出していました。

これから生まれる塩竈市の記録誌が、次に来る災害の『減災』につながるかもしれない。
「次世代に伝える」という、私たちの未来への責任を強く感じた取材でした。

塩竈市で進む東日本大震災記録誌の編纂については、これからもご紹介していきます。

(取材日 平成26年6月15日)