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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年7月10日木曜日

2014年7月10日木曜日18:00
東北鎮護・陸奥国一之宮の鹽竈神社
創建年代は不明ですが、平安時代の記録にはすでに登場しています

市街地の中心が海岸に面し、美しい島々を見渡せる塩竈市。
『八百八島』といわれる松島の島々のうち、実は半分以上が塩竈市にあります。
一森山の鹽竈神社から見渡すと、まるで箱庭のように美しい塩竈の街並みと、海に浮かぶ島々を見ることができます。
「日本三景松島の半分は、実は塩竈からできている」、そう実感する眺めです。

しかしあの日、黒く濁った巨大な海水の塊が、絵画のように美しい風景を飲み込みました。

塩竈市に到達した津波の高さは、本土側で1.5m~4.8m。人が居住する浦戸諸島では8mを超えました。塩竈市の約22%の面積が浸水し、島々では、壊滅的な被害を受けました。

震災から3年。その塩竈で人々の記憶を「記録する」取り組みが始まっています。
塩竈市による「塩竈市東日本大震災記録誌」の編纂です。

塩竈市の震災記録誌の編纂には、大きな特徴があります。震災記録誌を作りあげてゆく過程に市民が参画するのです。
被災者した市民の視点を織り込みながら、後世に残してゆくべきものを塩竈市とともに考え、ともに作り上げてゆくのです。

「求む!あなたの記憶と記録!!塩竈市東日本大震災記録誌ワークショップ開催!」
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/06/blog-post_7286.html

その第一回目のワークショップが、6月15日に塩釜市内の「ふれあいエスプ塩竈」を会場に開催され、定員を超える30人以上の市民の皆さんが集まりました。



第一回目となる今回のワークショップでは、塩竈の歴史を知るために、2つのテーマが設けられました。
テーマ1 「塩竈の歴史を聞いてみよう、考えてみよう。」
テーマ2 「東日本大震災と塩竈~震災と復興の歴史~」

今回はそのテーマ1のワークショップの概要についてお伝えします。

当日は塩竈市東日本大震災記録誌の編集委員長でもある塩竈市の内形繁夫(うちがたしげお)副市長も出席し、編纂事業への市民の皆さんの協力と支援を呼び掛けました。

「皆さんとともに後世に残る記録誌を」と話す内形繁夫副市長

ワークショップの進行はNPO法人20世紀アーカイブ仙台の佐藤正実(さとうまさみ)さんです。
「今回の記録誌づくりは最終目標ではなく、その記録誌を使って『語り合い続けること』が、風化を防ぐために重要なのです」
開会の冒頭で、佐藤さんはそう語りました。

「記録誌をつかって、語り合うことこそが風化を防ぐ」そう語る佐藤さん

ワークショップ第一回目の講師は仙台市教育委員会文化財課の木村浩二(きむらこうじ)さん
専門は東北の古代史で、今回の東日本大震災以降は、震災以前よりまとめていた平安時代の地震と津波の研究成果を公表し、“歴史から学ぶ減災”をテーマに多くの講演を行っています。発掘成果、地質、文献、古地図、地形、地名など、多角的な側面から歴史を検証し、メディアにもたびたび出演しています。

「最近は『防災』ではなく、『減災』という言葉を意識的に使います」
そう語る、木村浩二さん

「行政資料一辺倒ではなく、市民の皆さんからの声を吸い上げ、市民目線の記録誌を作ると聞いて、私にも手伝いできることがあるのかな、そう思いました」

木村さんは塩竈で生まれ育ち、小学生の時には塩竈で昭和35年(西暦1960)のチリ地震津波も経験されています。

「歴史年代の数字にも触れますが、歴史の授業ではありませんから、全部忘れてもらって結構です。私の話したことを、どれか一つでも持ち帰っていただければうれしいです」

冒頭の挨拶で、木村さんはそう話しました。

縄文時代---「豊かな海の幸を求め、人々が集まる“塩竈”」


丘陵上にある国史跡の大木囲貝塚。丘の向こうには塩竈港が見えます

「日本有数の遺跡の宝庫」。
塩竈を含む松島湾沿岸エリアは、縄文時代の遺跡が集中する地域として有名です。
最も古いものでは、塩竈から外洋に離れたところにある舟入島の貝塚で、約6000年前のもの。

その頃から、湾岸に居住する人口が「どっと」増えて、塩釜港の南側の丘陵にある隣の七ヶ浜町の大木囲貝塚にも人が住み始めます。発掘調査から、大木囲貝塚の集落には2,000年程の間、人が継続して住み続けたことが分かりました。このころの気温はとても温暖で、今より2度から3度程、年平均気温が高かったそうです。

平成25年の大木囲貝塚の発掘風景
貝から溶け出したカルシウムで守られるために
貝塚では多くの遺物が発見されます(中央は埋葬された人骨)


「縄文時代は現在より温暖で、三内丸山遺跡のあった青森県でさえ、現在の仙台と同じぐらいの暖かさのようです。では仙台湾周辺はどうかというと、さらに暖かい。現在の千葉県や神奈川県と同じぐらいの暖かさだったと考えられます。
縄文時代というのは日本の歴史の中でも、もっとも暖かかった時代といえるようです」

温暖期だったこの時代の海面は現在より高く、海岸線が内陸部まで深く入り込んでいました。

「温暖な時期、海の幸を求めて、人々は浜辺に暮らしていました。興味深いのは、貝塚の分布が当時の海岸線よりも少し離れた高台にあるということです。おそらく、当時の人々は私たち以上に津波を恐れていたのかもしれません。遺跡の立地する場所を見ると、そう推測できます」

多くの縄文時代の遺跡を観察してきた木村さんは、そう指摘します。

大木囲貝塚は標高40メートルの丘陵上にあり、眼下には塩竈湾が広がります

弥生時代---「平地がなく、稲作が難しい“塩竈”」
自然との共生であった縄文時代から、人工的に作物を作る弥生時代に移ります。

「縄文時代に発展した地域は起伏に富んでいて、逆に稲作に必要な平地がありません。そのため、平地の多い多賀城や仙台方面の平野部へ、人の移動があったのではないでしょうか。」

木村さんはそう語ります。
仙台平野では、2000年前の弥生時代が始まって間もない時期の水田跡が、次々と発見されています。



古墳時代---「権力者がいなかった?“塩竈”」
古墳時代といえば連想されるのが、時の権力者によって作られた、巨大な前方後円墳や円墳です。名取市など仙台平野南部には、畿内や関東の大形古墳と同じようなプランで作られた古墳がたくさんあることが分かっています。そのような古墳が、「塩竈の湾岸では見つからない」と木村さんはいいます。

「弥生時代以降、稲作などの生産基盤が仙台平野側に移ったために、“塩竈”には大きな古墳を作るような権力者がほとんどいなかったのかもしれません」

しかし木村さんは、“塩竈”地域に人が住み続けていたことに間違いはないと言います。それを示す古墳時代初期の土師器(はじき)とよばれる素焼きの土器が、かつて築港工事の際に、たくさん出土したという記録があります。また、古墳時代の終わりから飛鳥時代にかけて、凝灰岩(ぎょうかいがん)の崖に横穴を掘った横穴墓(よこあなぼ)とよばれる有力者の墓が、一本松地区や多賀城の大代でたくさん見つかっています。

「これらから分かることは、“塩竈”周辺には、絶えず人が住んでいて、多くの人々の暮らしがあったということです」


奈良・平安---「陸奥国府の拠点、国府の津“塩竈”」
奈良時代に入って間もない神亀元年(西暦724)、陸奥国府が仙台市太白区郡山から移され、現在の多賀城市に「多賀城」が置かれました。城下には、東西南北に碁盤の目状に道路が作られるなど、政治的意図をもって作られた「都市」が出現します。塩竈も、多賀城とともに歴史の表舞台に登場するようになります。

塩竈市の「杉の入地区」。ここから平安時代の庶民が使った土器がたくさん出土しました。このことから、現在の東塩竈の海沿いの一帯に、かつていくつもの集落があったのではないかと考えられています。

「おそらく多賀城と何らかの関係を持つ人たちが住んでいたのではないか」

木村さんはそう推定し、土器の出土以外にも、それを示すと思われる地名が塩竈には残されていると言います。

「香津町」は現在の仙石線西塩釜駅の西側、塩竈市立病院の周辺の地名です

大正5年に命名された塩竈市の「香津町(こうづまち)」。「香津」とは「国府津(こくふのつ=こふつ)」という音に漢字を当てたものと考えられ、おそらく「国府の港があった」という伝承から、町名をそう定めたのではないかと木村さんは言います。
「津」とは「港」を表す言葉ですから、「国府多賀城の港」という意味の地名になります。

「陸奥国府である多賀城の専用港が、塩竈にあったのでしょう。でも、その港の遺跡が発見されることはないと思います。長年の開発や、埋め立てで、痕跡はすっかり失われているからです。地名などの情報から、港の推定地点を考えるしかありません」

都人の憧れ---「陸奥国の景勝地、塩竈」
国府多賀城には多くの官人が都から赴任してきました。当時の官職から考えると、6~7人の上級官人を含め、少なくとも20人前後の官人が多賀城に来ていたそうです。彼らの都への報告や、帰国によって、次第に遠く離れた都でも“塩竈”が知られるようになっていったのでしょう。

実際に多賀城に赴任することはなかったようですが、貞観六年(西暦864)に陸奥出羽按察使に任命された官人のひとりに、源融(みなもとのとおる)という人物がいます。「源氏物語」の「光源氏」のモデルと言われている人物です。

源融は邸宅である六条河原院に、塩竈の風景を模した広壮な庭を作りました。そこに難波から海水を運ばせて、塩竈の藻塩焼きをまねては風雅を味わったと言います。この話は都でも評判になり、紀貫之(きのつらゆき)や在原業平(ありわらのなりひら)といった当時の名高い歌人たちも、彼の邸宅を訪れたと言われ、歌も詠んでいます。

「その話からも、塩竈が風光明媚の地であり、当時の都人の誰もが知る『陸奥国の景勝地』だったことがわかります。塩竈は都人にとっても特別な憧れの対象になっていたようです」

表坂下の「歴史の道」には歌碑や曲水などモニュメントがあります

江戸時代---「埋め立てが進む塩竈」
江戸時代になり100年が経過した元禄年間。
当時の塩竈の様子を推定した町割りの図があります。この図を見てみると、塩竈の町の様子が大きく変化していることに気が付きます。塩竈の入り江がだいぶ埋め立てられ、平坦な土地がどんどん広がっているのです。「新町」や「新河岸」など、埋め立てによって新しくできた土地であることを示す町名が地図上に現れてきます。

「今の塩竈の中心の平坦な地域は、中世以降の度重なる海の埋め立てによってできた新しい土地なのです」

平坦な地形は、入り江を埋め立ててできたものです。(宮町の丹六園の前より、西の新町・西町方向を望む)

明治時代の塩竈の絵図。埋め立てによって、町が東へ伸びています

「かつて海だった」地域を襲った東日本大震災の津波
木村さんは、2枚の地図を示しました。1枚は今回の津波の浸水域を示した地図で、もう1枚は、古い地形図で埋め立て前の海岸線を示したものです。その2枚を重ね合わせると、驚くべきことに、両方がほぼぴったりと一致するのです。会場からは、驚きの声も上がりました。

津波で浸水した地域は、もともと海だった場所でした
左が古地形、右の黄色い部分が津波の浸水域

「もともと海だった場所を埋め立て、そこにできたのが塩竈という町です。津波はかつて入江だった場所に入ってきたのです。埋立地が非常にリスクを伴う土地であることが分かります」

海とともにある塩竈
数千年も前から、海とともに生きてきた塩竈。
有史以来、幾たびもの地震や津波に襲われながらも、その度に力強く何度も立ち上がり、町は縮小することなく、むしろ拡大してきました。

「奈良・平安時代を見ても、国府のあった多賀城と、その拠点となる津(港)のあった塩竈というのは、かなり密接で有機的な関係によって生活圏が成り立っていたことが分かります。塩竈を取り囲む周辺一帯は、一つの世界を作っていたといえるでしょう」

木村先生は塩竈の歴史を振り返って、最後にこう結びました。

「塩竈は常に海を活かし、海ととともに生きてきたのです」


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1時間で6000年にわたる塩竈の歴史を振り返った今回のワークショップ。駆け足での歴史探訪となりましたが、あらためて感じたのは、「海の民」とも言える塩竈の人々の底知れぬ力強さでした。幾たびもの津波に襲われながらも、塩竈の発展が停滞した時代はありません。時が流れた現代でも、塩竈にはその、「復興と発展の遺伝子」が宿る気がします。東日本大震災からの復興を、後世の人々が語り合う時代がきっと来ることでしょう。

次回は引き続き行われた第二部、「東日本大震災と塩竈~震災と復興の歴史」のワークショップの様子についてご紹介いたします。

(取材日 平成26年6月15日)