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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年6月30日月曜日

2014年6月30日月曜日10:15
こんにちはエムです。

東日本大震災で壊滅的な被害にあった亘理町荒浜地区。
海に面した東からの津波と、阿武隈川をさかのぼり堤防を越えてなだれ込んだ北からの津波の両方に襲われ、特に荒浜五丁目行政区(現あぶくま行政区)では、約150戸が被災しました。

奥に見えるのは建設中の堤防道路

その荒浜五丁目で、津波に耐え、現在も枯れることなく青々と葉を茂らせている一本の松の木があります。

永浜紀次さんの敷地内に堂々と立つその「一本松」は、伸び伸びと枝を伸ばし、私たちのイメージする松の樹形と違って見えます。

奥に見えるのは阿武隈川の堤防

永浜さんにお聞きすると、昔からこの辺りにはあまり大きな木がなく、松の木はここにしかなかったそうです。回りに遮るものがないのが要因かと思われますが、これが松本来の樹形なのでしょう。
その堂々とした姿は、人知を超えた力を宿しているかのように感じました。

正確な樹齢は分からないということですが、永浜家がこの地に移り住んで約200年。おそらくその頃に永浜さんの先祖が植えたか、その前から自然にこの地に根付いていたのではないかと推測されています。

宮城県では太い松の木が珍しくなっているようです。
ある日訪ねて来た樹医さんに「枯れてない」と太鼓判をもらいました

東日本大震災では永浜さん自身も被災しました。
大きな揺れが収まると、ラジオで津波警報が出たのを聞いた永浜さんは、その時家にいた奥様と3人のお孫さんをいち早く近くの荒浜小学校へ避難させました。
自身は水の様子を確認するため阿武隈川の堤防に上り、そこで川の水が海に向かって引いて行くのを目撃したのだそうです。

「水が引いたので津波が来るとは分かったが、まさか堤防を超えるとは考えてもみなかった。宮城県沖地震での津波は3mと言われていたし、今までの経験からも大丈夫と思っていた。でも実際は10mもの津波が来たんだね」

永浜さんは小学校へ避難して無事でしたが、荒浜の町並み、たくさんあった民家はことごとく流され、多くの犠牲者がでたのです。

「次の朝、避難先の学校から一本松が見えた。そのそばに家があったんで、我が家が残っているのが分かったんだ」

永浜家では昔から松の根元に屋敷神を置いて祀っていたそうですが、何かに守られたように感じた永浜さんは震災の後、手作りの鳥居を置きました。

「大丈夫と思って歩いて逃げたので、
置いていった車3台は流されました」
背景の広大な土地に、震災前は民家がたくさん建っていました

この荒浜地区では代々、半農・半漁で生計を立ててきました。
永浜さんは5年ほど前に漁業は辞めましたが、農業は続けていました。
「気分転換になる」と現在も(ほぼ)毎日、奥様とともに仮設住宅から通って作物を育てています。

津波で畑の表土が流され、養分のない土になってしまいましたが、
肥料を入れ直し、震災のあった年の秋には収穫していたという永浜さん

「回りは田んぼだったんだよ」
今も何種類もの作物を栽培しています

震災後この荒浜5丁目は町の災害危険区域に指定されており、住むことはできない地域となってしまいました。
現在、鳥の海から延びる堤防道路の建設が進んでおり、堤防道路の内陸側が居住地区になります。町の震災復興計画では、この周辺は公園が整備される予定だそうです。

津波に耐え、塩害にも負けずに強く生き残った「一本松」。
その姿は “生きよ” という強いメッセージと励ましを、無言で発信しているように感じました。

「一本松」が地域の復興のシンボルとしてこれから先もここに残ることを、たくさんの人が望んでいることでしょう。

「荒浜がもっと賑やかになるように」

ありがとう! 「一本松」!!

(取材日 平成26年6月19日)