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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2014年5月22日木曜日

2014年5月22日木曜日13:15
こんにちは、ザーリャです。
今回は前回に引き続いて、熊谷達也さんの講演会でのお話をお伝えします。

震災後の文学~仙河海市の物語を通して~熊谷達也氏講演会 前編(仙台市)

前編
http://kokoropress.blogspot.jp/2014/05/blog-post_8702.html

前編では、熊谷さんの震災時のお話を中心にご紹介しました。そして訪れた作家としての精神的な危機。
熊谷さんはどのようにして震災で喪失した、「小説を読むという喜び」と、「小説を書く」という日常を取り戻したのでしょうか。
熊谷さんは当時の日記から、そのきっかけとなった出来事を振り返ります。
そのいくつかのお話をご紹介します。
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2011年4月1日 気仙沼にて 写真提供:荒蝦夷(あらえみし)
被災地に寄り添う立場で
震災後、2、3日後、東京発のニュースは津波から原発の報道にシフトしていきました。遠くから撮影している原発の映像が続きましたが、事故の重大性を考えると、仕方のないことだと思っていました。しかし、東京で起こった「水の買いだめ騒ぎ」のニュースには悲しい怒りを感じました。

どうして、「東京の水騒ぎ」という報道が、全国のトップニュースなのだろう?
被災地では今、せっかく助かった方々が寒さに震えながら亡くなっている。私達には、もっと届けてほしい情報があるのに。
中央メディアへの怒りと不信がつのりました。

それまで、すさまじい沿岸部の被害に比べれば、「自分は被災していない」と思っていました。だから、何も言えませんでした。
しかし、これらの報道を目にしたとき、「被災した側の立場に立つべきなのだ、その立場で書くことが、ものを書くことでお金を得て暮らしている私の役目なのではないか」と思いました。被災した側に立ち、寄り添うということが納得できたのです。ひとつ前に進むことができました。

「調律師」(2013年 文藝春秋)
被災地の小説家として
震災後、さまざまな新聞や雑誌のインタビューを受けましたが、仙台の出版社のインタビューを受けたとき編集長からこう言われました。
「テレビでは沿岸部が壊滅したといって、瓦礫の映像を垂れ流しにしている。おそらく、中央から来たメディアは、そこがどんな町だったのか知らないで、ただ映しているのでしょう。どんな肌ざわりの地域だったのか、人々はどんな暮らしをしていたのか、それを肌で知っている小説家は、熊谷さん、あなただけです。これは運命です。めぐり合わせですね」

震災直後、小説「調律師」の3話目では、主人公が震災の当事者でなくてはならないと考え、後に被災するという伏線をはって書きました。しかし、東日本大震災を真正面から描いた小説は、まだ書けません。でも、いつかは書かなくてはいけないと思っています。

 ◆震災後、初めて読めた小説
震災後しばらくたって訪れた函館で、佐藤泰志さんの「海炭市叙景(かいたんしじょけい)」という短編小説が、函館を舞台に撮影されて映画化されていたことにあらためて気づきました。それで小説を読んでみたのです。震災後初めて、非常に感動した小説になりました。そして、「こんな物語を書きたいな」と思いました。これが「仙河海市」の出発点となります。この小説のように気仙沼をモデルに伝えたい、そうすれば書き続けられそうだなと思いました。

「リアスの子」(2013年 光文社)
リアスの子
震災の年の秋になって、かつて中学の教師をしていたころの教え子たちに約20年ぶりに会い、再びつながることができました。仮設住宅で一緒に飲んだり、震災後の暮らしについて聞いたり、若い彼らに会うことで、力やヒントをもらいました。「リアスの子」は気仙沼での教員時代の経験が元になっています。自分の分身である主人公が、舞台となる「仙河海市(せんがうみし)」の学校で、いろいろな子どもたちに出会います。ちょっとしか登場しない人物が、次の物語では主人公として登場する。震災前を丹念に、重層的に描くことで、「なぜそうなったのか」ということが伝えられるのではないかと考えています。

自分の小説でできること
震災の日、日本に住む人たちの時計は止まりました。日本が一度、一つになりました。しかし当然いつまでも一つでいられることはありません。人それぞれ違う「自分の時計」は、再び異なる速さで動き出すからです。そのことに気が付き、「一つになったことをそのままにしておきたい」、そう感じて多くの人、団体、あるいはメディアが「絆」という言葉にすがったのだと思います。ばらばらになってゆくことを、みんな何となく分かっていました。それが辛くて、あるいは忘れないでという思いで、「絆」という言葉でつなぎとめておきたかったのでしょう。
復興とは被災した方々の時計の格差が拡大するということです。
もう時計が動き出した人と、未だに遺体を探す人。自分の時計は自分で動かしてゆくしかないのです。

だから、小説家としての自分にできる事は、「忘れていませんよ」というメッセージを発し続けることなのです。
それは、私が仙河海市の物語を書き続けるということであり、自分の書く小説で、唯一できることなのです。

この私の思いが本当に届いているのか、疑心暗鬼になることもあります。そんな時、気仙沼の当時の教え子や応援してくれる人たちの事、そして、このように雨の中集まってくださった皆さんの事を思い出せば、まだしばらくはこの仕事を続けられると思っています。

いつ完成するか分からない仙河海市の物語のパズルができ上がるまで、皆さんに見守っていただけるとうれしいです。

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(講演を聞いて)
一時間半という講演時間が、私には本当に短い時間に感じました。できるならば、もっといろいろなお話も聞きたいと思いながら、後ろ髪を引かれる思いで会場を後にしました。

震災の日から、私の心の中には、正体のわからないぼんやりした思いがありました。それが熊谷さんによって言葉を与えられて、何によるものだったのかはっきりした気がしています。タイトルは「震災後の文学」というものでしたが、内容は文学だけにとどまるものではありませんでした。同じ被災地に住む私たちが、熊谷さん同様に「私たちにできること」を考える機会になったのではないかと思います。

次回は、講演会を企画した株式会社日専連ライフサービスのプロジェクトマネージャーに、講演会に込めた思いをインタビューする予定です。
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今回の記事の作成では、仙台の出版社 荒蝦夷(あらえみし)の皆さまにご協力をいただきました。
ありがとうございました。

(取材日 平成26年4月3日)