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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2013年3月25日月曜日

2013年3月25日月曜日11:21
kaiiです。

昭和21年から気仙沼市・南三陸町を中心に地域に密着した地元のニュースを伝え続けている株式会社三陸新報社。社長の朝倉眞理さんに、震災発生から2年が過ぎた今、「情報を伝える」ことについて伺いました。



「真実、公正、友愛、自由」を旗印に三陸新報社は地域のニュースを伝えています。「新聞は地域のためになるものでなければならない社員のためのものではない」と朝倉社長は言います。

東日本大震災の時はその日から大停電が起こりました。海沿いで取材中だった数人の記者は、山沿いの会社まで何とか戻りました。朝倉社長は、大津波の襲来で町が大変なことになっていることを知りました。社員に翌日の発刊について聞かれた朝倉社長は、迷わず発刊の指示をしました。

停電で印刷機械は動かすことができなくなっていました。それでも社員の人たちが協力して、車のバッテリーで発電し、パソコンとプリンター1台を動かすことができました。そしてA4サイズの「三陸新報」を100部印刷し「未曾有の大震災」を伝えたのです。

翌12日、気仙沼市旧市内の小高い場所にある気仙沼小学校と気仙沼中学校に避難していた人たちに届けました。届けた新聞はあっという間になくなり、避難していた人が顔を寄せ合い読んでいました。

翌々日の13日に朝倉社長が避難所に新聞を届けに行くと、避難していた方に「三陸さんだから読みますね」と声を掛けられました。朝倉社長はその時、阪神淡路大震災を経験した神戸の新聞社の方の「新聞は出し続けることに意味がある」という言葉を思い出しました。

震災から2日目には車のガソリンも切れましたが、14日には東北電力の努力で山沿いの会社の停電が解消され小型印刷機2台を動かせるようになり3,000部の新聞の印刷ができるようになりました。1,000部は気仙沼市の災害対策本部へ届け、残りの2,000部は社員が手分けをして避難所などに配りました。

避難所に新聞を配りに行くと、山間部の人や自宅避難の人も避難所に新聞を求めてきていました。震災当時は生活情報と安否情報が求められました。
支援物資がどこでもらえるのか。遺体の安置場所がどこなのか。家族は無事なのかも分からない状況でした。避難者の中には「活字が懐かしい。”三陸”が読めてうれしい」と新聞の到着を待っている人がいました。この読者の声や姿に「伝える者の責任を強く感じました」と朝倉社長は発災からの1カ月を振り返ります。

震災の影響を受けた小型の輪転機を1週間かけて修理し、2011年4月1日からは「三陸新報」として本格的に発刊を再開しました。
配達員の人たちも被災し、配達員の人員の確保も困難な状況でしたが、」残った家を確認しながら三陸新報を配りました。配達開始からの1カ月は情報が錯綜し配達もままなりませんでした。

朝倉社長は「『伝える』とは、追求して書くことです。新聞は、毎日発刊し毎日廃刊していきます。読者は何を必要としているか? 地方紙として目の前のことを書き伝えたいと思います。故郷と市民のことを伝えることを大切にしています」と話しました。



「生かされて生きる」。
朝倉社長は、現場で毎日、取材活動をする記者や共に働く社員に感謝していました。「生かされて生きる」この言葉の中に「地域と共に生きる」「人と共に生きる」「今日を生きる元気になる記事で地元を伝える」強い思いを感じました。



kaiiも毎朝、「三陸新報」を楽しみに待つ読者の1人です。紙面に震災後の気仙沼市や南三陸町の復興の息吹を確認し、心が折れそうな出来事があった時には紙面で伝えられる子どもの笑顔や情報に自分を奮い立たせます。震災後、どこか後ろ向きな気持ちが漂う町の中で「今日を元気に生きるため」に読むことができる新聞がこの町にあることを心の支えに、「伝える」立場としての学びも大切にしています。

(取材日 平成25年1月30日)