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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2013年1月10日木曜日

2013年1月10日木曜日18:54
皆さん、こんにちは。スーサンです。

新たに大きな観光需要をもたらすことで、重要な震災復興策に位置づけられる「仙台・宮城デスティネーションキャンペーン」が、2013年4-6月に予定されています。その目玉の1つとされているのが、伊達政宗が支倉常長を派遣した慶長遣欧使節の400周年です。

農商工業者の連携事業を進めてきた仙台市は昨年11月14日、慶長遣欧使節400周年に着目した、地元農産物を使った新商品づくりのための「仙台地域農商工連携促進セミナー」を、宮城野区中央市民センターで開きました。

支倉常長の人物像、支倉常長が生きた時代の食についての講演会(第1部)、商品開発のためのワークショップ(第2部)、展示・交流会(第3部)から成るこの催し。個人農家、加工生産グループの農業者に加え、飲食、宿泊、食品加工、食品流通などの商工業者ら40人が参加しました。

今回はその第1部、慶長遣欧使節とその時代背景、そして当時の「食」についての講演の内容をお伝えしていきたいと思います。

最初に講演したのは、仙台市博物館学芸員の佐々木徹さんです。「慶長遣欧使節の旅路」と題し、最新の研究や欧州での出品交渉を元に、支倉常長について解説しました。

慶長遣欧使節とは、仙台藩の初代藩主である伊達政宗が、宣教師の派遣と日本、メキシコ間の通商貿易の許可を求め、家臣の支倉常長をスペイン国王、ローマ教皇に派遣したことです。派遣の期間は、慶長18年9月(1613年10月)から元和6年8月(1620年9月)の約7年に達します。

一行の総勢は180人で、仙台藩士だけではなく、江戸幕府関係者、スペイン人など南蛮人、商人から構成されています。圧倒的多数だった商人はメキシコに残り、外交交渉で渡欧したのは約30人に過ぎないとされています。江戸幕府関係者も乗船していたことから、使節の派遣が幕府に内密で行われたという説が退けられるといいます。

使節には2人の大使がいたといいます。1人は、江戸幕府の大使と自称するフランシスコ会の宣教師、ルイス・ソテロです。

市博物館の佐々木さん(左端)は「今年は重要な年になる」と。

もう1人が仙台藩から大使の命を受けた支倉常長です。知行高がわずか720石の中級家臣に過ぎない支倉を、なぜ伊達政宗が抜擢したのかという話に及びました。これまで、支倉は危険を伴う藩の事業の捨石という考えも存在していました。

「最近の研究では、支倉は伊達政宗の側近として重用され、主君から信頼が厚かったとみられています。前年に支倉の父が所領没収、支倉自身が追放という憂き目に遭う中で、政宗は支倉を復権させようとした形跡があります。支倉は政宗とともに朝鮮出兵の経験があり、海を渡ることに対してふさわしい人物とも思えるのです」

使節はスペイン国王に謁見することができましたが、通商貿易の許可は拒絶されます。日本では徳川幕府がキリスト教徒迫害に転じ始め、その情報が本国にもたらされるのです。カトリック諸国は、布教と貿易が一体のものとなっていました。

その後、支倉ら一行はローマ教皇に会うべく、地中海に沿ってイタリアに移動します。ローマ教皇からは大いに歓迎されるのですが、スペイン国王の許しを乞うよう促され、再度スペインに向かうことになります。しかし、スペイン国王は面会を拒み、支倉の待機は続きます。待機の場所は、スペイン国内からメキシコ、さらにフィリピン・マニラへと移ります。

セミナーは農商工連携事業の一環で開催されました

佐々木さんは、市博物館が今年10、11月に開催を予定している支倉常長記念特別展の担当者として、昨年10月に、慶長遣欧使節の関連資料が残されているスペイン、イタリアで出品交渉に赴きました。

この際に、新しい資料として発見できたのが、プラド美術館に収蔵されているスペイン国王フェリペ3世の肖像画です。支倉らがスペインにいた頃に描かれたもので、日本では知られていないものだといいます。シマンカス文書館には、支倉がフェリペ3世に宛てた花押入りの直筆の手紙も残されています。

イタリアでの同様の借り受け要請は、支倉の白い和服姿の肖像画(個人蔵)や、政宗がローマ教皇パウルス5世に宛てたラテン語と日本語の書状、それを収めた蒔絵の文箱(ヴァチカン図書館蔵)などです。

これらはいずれも現在出品交渉中ですが、交渉が首尾よくまとまり特別展に間に合うことが期待されます。

市博物館に収蔵されている、十字架に手を合わせる支倉の肖像画はあまりにも有名ですが、これを含め、支倉が持ち帰った関連資料は47点に上っています。これらは、江戸幕府による禁教令の布告以降、大部分が仙台藩に没収されたものですが、明治の欧米化政策で脚光を浴びることになり、歴史の表舞台に再登場します。所有が伊達家や一部資産家に移っていたものを、仙台市が昭和39年(1964年)に一括購入したという経緯があります。国宝に指定されたのは平成13年(2001年)です。

一昨年5月に文化庁は、これらが「日欧交渉史上の資料としてこれほどまとまって残っているのは例がない」などとして、ユネスコの「世界記憶遺産」の推薦候補に認定しました。昨年2月には、スペインに残されている、先ほどの支倉からフェリペ3世への手紙など94点の関係文書とともに共同推薦されることが決定されました。今年5月には正式登録される運びとなっています。

「2013年は使節派遣から400年という節目の年でもありますが、同時に、仙台市が持っている慶長遣欧使節の関連資料が、日本の名品から世界の名品になるという、非常に重要な年になります。皆で盛り上げていきたい」

締めくくりは熱いメッセージでした。


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続いて講演したのは、日本民俗学会評議員の佐藤敏悦さんです。「藩政期の仙台の食と南蛮料理」がテーマでした。

中央に立ち、資料を読み解く佐藤さん

「状況証拠しかそろっていない状況にあります。しかし商品を考える上では、状況証拠であればあるほど応用範囲が広く、さまざまな発想が出てくるのではと考えています」

支倉常長と食について、都合よく資料が残っているわけではありませんでした。支倉がフランスのサントロペという町で、ある煮物を食べたとされていること以外には、まったく分からないということ。支倉が食事について記入したかもしれない日記が残されていたものの、行方不明になったことが示されたのです。

ここから、論点は①支倉の時代には何を食べて、仙台にはどのような食べ物があったのか②支倉を語る時に欠かせない伊達政宗が、どのようなものを食べていたのか▽大型旅行キャンペーンの枠組みの中で商品としてどのように差別化していくのか――といったものになりました。

支倉が生まれたのは元亀2年(1571年)で、戦国時代末期。関ヶ原西軍の武将の娘が語った「おあむ物語」などからは、武家の子弟ですら菜っ葉飯といった粗末な食事であったことがうかがえるといいます。

また、戦国時代の伊達政宗(1567-1636年)の食について、エピソードが紹介されます。19歳の合戦時に、「一日も早く天下を泰平にして、大豆飯と芋の子汁、生イワシを腹いっぱい食べたい」と話したといいます。後年、50歳を目の前にして、重臣から食事の招待を受けると、まったくそれらと同じものが食事に出されたといいます。政宗は不満を漏らすわけですが、重臣からは「泰平の世になっておごりが出た」と諭されます。

慶長期(1596~1615年)には食糧がある程度出回るようになったようですが、仙台での食に関する資料はあまりないといいます。

享保18年(1733年)に、仙台藩の第5代藩主、伊達吉村の料理番を務めた橘川房常が、料理書である「料理集」を著しています。この中には、地元食材を使った料理282種類が掲載されていますが、クジラやホヤの料理に交じって、牛を材料に使った味噌汁が登場します。牛肉料理の具体的なレシピとしては、日本最古のものとなるのだそうです。

政宗自身が何を食べたかは、さまざまな文献に取り上げられているといいます。中でも、鳥料理とサケの寿司が頻出するようです。「伊達政宗言行録」という本の中には、柳津(現宮城県)産のキジを食べたとの記述があります。

最も儀式的だった料理に目を向けると、伊達家の正月で雑煮の後に出される3汁16采の本膳の内容が、政宗の小姓だった木村宇右衛門が残した「木村宇右衛門覚書」の中に記載されています。これらは納豆など地元食材が使われ、政宗が生きた時代の代表的な仙台料理と目されるようです。

「支倉の食」「政宗の食」の延長線上に、どのようなものを検討すべきなのでしょうか。提案があったのは南蛮料理でした。

実は、当時の日本にはすでに外国から様々な料理が入っていたといいます。、キリスト教が排除されていく一方で、スペインなどの南蛮料理が日本料理に潜り込んで、定着していくという現象が起きたといいます。公式的な資料としては残ってはいませんが、わずかに「南蛮料理書」などの書物が長崎県などで保存されてきました。

この中の料理内容の一部が引用されたとみられる書物が、仙台市にも存在しています。「仙台料理書」がそれで、南蛮料理が6種類記されています。

「庭鳥食」。ニワトリを丸ごと釜に入れて、大きめに切った大根とともに軟らかくなるまで煮る、とあります。クチナシか紅花で色付けをし、ニワトリの煮汁で米の飯を炊く、とも。ニワトリと大根、ネギの白身を添え、肉桂、こしょう、丁子を調味料に使う、といったものなのです。

要するに、スペイン料理のパエリア、ポルトガルの「アロース」なのだそうです。大分県臼杵(うすき)地方には郷土料理の「黄飯」が伝えられていますが、これに類似しているといいます。ただ、使われるのはニワトリでなく、魚だそうです。

「クシイト」というものも記述されています。大根とニワトリを切って4時間煮る。酢、醤油、酒、塩で味付けし、丁子、こしょう、ウコンを入れ、タマネギとニンニクを入れる。差し水をして、ニワトリが柔らかくなるまで煮る――スペインではコシード、ポルトガルでコジードと呼ばれる、現在も食べられているものに相当するのだそうです。これは、支倉が仏・サンペトロで食べた煮物であると推定されるのです。

支倉がスペインに赴いたから、パエリアという料理を食べたのではなく、支倉が生きていた時代の日本に、すでにパエリアがあったということは、商品開発していく上で強みとなりそうです。政宗も食べていたかもしれないのです。

「私たちが今後料理というべきものを考える時に、先人が過去に食べていたものをなぞるばかりではなく、私たちの食生活の中で考えていくことが必要。食は文化なので、文化の一面として考えてもらうのは相当意味があることです」

最後の示唆的なコメントが印象的でした。


多くの参加者は、相当刺激を受けたはずです。お2人の講演は、ほとんどが初めて聞くような話で、興味深く驚きの連続だったと思いました。

(取材日 平成24年11月14日)