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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年12月14日金曜日

2012年12月14日金曜日15:15
皆さん、こんにちは。スーサンです。

町中に住んでいて、沿岸部にどれほど寄り添えるのか、と考える時があります。仙台市の話です。

仙台市若林区井土は、北隣の同区荒浜に比べれば、名前がそれほど知られているわけではありません。100を少し超える世帯の7割は農家、住民数約400人というこの地区を、3.11の大地震と大津波が襲いました。結果、40余りの家屋が流出し、36人が死亡しています。

いったんは壊れた自宅を離れたものの、その後、修理して再び住み始め、地域の再建で先頭に立っている人物がいると聞き、井土地区へ向かいました。

農地と宅地の区別がほとんど付かず、ただ荒涼と感じられる平原にぽつんと立つ白い家の主こそが、その人物である加藤新一さん(72)です。家と太平洋を結ぶ距離は、貞山運河をはさみ、わずかにおよそ700mといいます。

現在の加藤さんの自宅です。奥が北側になります
震災から1週間後の加藤さんの自宅は、周囲を流木とがれきが埋めていました
  
「皆がばらばらになるにしても、絶対に無くしたくはないなと思いましたね」

現在、最も熱心に取り組んでいるのが、老人クラブの活動です。50年ほど前に設立され、会員数46人、平均年齢68歳という「井土寿会」がそれで、加藤さんが会長を務めています。町内会活動が実質的に休止せざるを得ない状況で、老人クラブが唯一、従来の地域社会をつなぐ役割を担っているといいます。

井土地区は昔ほどではないようですが、支え合いや助け合いといった、仙台弁で言う「結い」の気風が残されてきました。元をたどると、「よいっこ」と呼ばれる慣習に行きつくといいます。昭和40年代までは、田植えや稲刈りをはじめ、付近に自生するカヤの刈り取り、それを使った屋根ふきなどを、地域がひとつになって行ってきたのです。

現在の地域住民は、60歳以上が7割を超え、3世代、4世代の世帯も少なくありません。土地柄からは、年配の人間であればあるほど、地域を育んできたという構図がうかがえるのです。

震災で残った60数家屋も、40家屋近くが取り壊しや修理を余儀なくされました。住民は離散している状態が続いていて、再居住などして今も生活しているのは、4世帯11人に過ぎません。

井土寿会の会員のほとんどが、「みなし仮設住宅」であるアパートなどの借り上げ住宅に住んでいるので、なかなか行き来が容易ではありません。加藤さんは一計を案じ、往復はがきを使って連絡を取ることにしました。

震災は11人の会員の命を奪い、震災直後は、会員から「もうやめたい」との声が聞かれたといいます。それでも、加藤さんの存続の努力によって、年に2回の旅行会をはじめ、運動会や市民センターでのイベントなどは、以前と変わりなく行われるようになったのです。最年長は90歳といいます。会員の中ではまだ若い部類という加藤さんは、企画や引率などで奔走の日々が続きます。

「津波被災の住民はいつ自分の住める所が
決まるのか、なやんでいます。わかったら
はやく知らせてほしい。仙台市へ」

散り散りになった会員とは、往復はがきで連絡を取り合いました

老人クラブの活動の中でも注目されているのが、普段の生活の中でお互いを気遣うという「声掛け」のようです。声掛けは、すぐにでもお茶飲みや酒飲みに発展する気軽さが身上です。

具合が悪いのかどうか。何かがあったのか。家の外に出てこないという住民がいれば、立ち寄って、何気なく話を聞き出す――こうしたことは、老人クラブの活動というより、現在、再生や復権が叫ばれている、相互扶助に基づくコミュニティの原風景にも思えるのです。

「シニアパワーを抜きにしては、復興は考えられないはずです。年老いた者が、自分の家の子だろうが、ほかの家の子だろうが関係なく、地域の子どもたちの面倒を見て、大事にしてきたのです」

加藤さんは、地域社会に期待を寄せています。地域の住民が戻ってくるために、下地をならしているかのようにも見えます。

地域の今後の居住計画は、周辺を南北に貫く県道「塩釜亘理線」によって明暗が分かれました。仙台市の震災復興計画では、県道の西側は再び住むことが認められたのですが、加藤さんの自宅がある県道の東側は災害危険区域に指定されているのです。

自宅の修復は、すべて自分で行ったといいます

災害危険区域は、防災施設を整備しても津波の浸水域が2mを超え、被害の危険度が高いとされています。住居の新築と増築は認められていません。その一方で、住居の修理はかなうという微妙な立場に置かれています。

自宅は土地とともに18歳で購入し、親を住まわせ、26歳でその借金を返しました。愛着があるといいます。20数年前には水害をきっかけに、木造から強固な鉄筋コンクリート造りに変えました。だからこそ、今回の被災でも躯(く)体としては残り、修復が可能となったのです。

加藤さんが頑張れるのは、郷土愛に加えて、当たり前過ぎる「人のために尽くすこと」という、長年にわたってボランティア活動で培ってきたものがあるからです。

国際交流では特に知られた存在のようです。自宅に多くの外国人をホームステイさせ、貞山運河や井土の海辺を案内してきました。仙台市の姉妹都市となっている米国・リバーサイド市との交流でも、第一人者として活躍してきました。ガス・土木工事の会社勤務の経験を生かし、5年前に現地で日本庭園を施工・寄贈した加藤さんに対して、震災後の昨年4月、現地の新聞社がわざわざ安否を尋ねて、自宅を訪問したほどなのです。

震災後に自身も体験した避難所暮らしでは、仕出し弁当にインスタントの汁物という食事の組み合わせを憂慮。料理好きでつくる「仙台男子厨房に入ろう会」の仲間とともに、温かな野菜たっぷりの汁物などを無料で振る舞いました。

「井土寿会」の震災後の定例イベント「お茶の会」での1コマ
周辺の9地区を網羅する「六郷老人クラブ連合会」の副会長を兼務している加藤さん。地域社会を蘇生し存続させるために、広域的な活動も展開しているのです。連合会の会員数は震災直後に大幅に減りましたが、最近では震災前と比較して100人単位で増加しているといいます。

「生活保護の申請などはなく、差し迫った生活の苦しさはありません。むしろ、どこに住むのか、突き詰めれば、どこで死ぬのかが気掛かりなのです」

震災に直面し、住む家を追われたシニア世代の大多数の気持ちを、加藤さんは代弁してくれました。

地域社会を考える上で、老人クラブがとても身近で重要な存在であると思えた訪問でした。

(取材日 平成24年11月30日)