header

宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

ヘッダー写真説明文

写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年11月15日木曜日

2012年11月15日木曜日16:16
皆さん、こんにちは。スーサンです。



今回は村田町に来ています。内陸部も沿岸部と同様、先の震災で被災しています。同町は震災による死亡者は皆無でしたが、建物などに大きな被害がもたらされました。

「蔵の町」として名高い同町にとって、まさに至宝とも言うべき「蔵」もその例外ではありません。
この春、ホイ・コーロー先生もレポートしていた村田町の、「今」を追ってみました。



2012年2月23日木曜日
村田商人今昔物語。すべての道は復興へつづく 前編 (村田町)
2012年3月7日水曜日
村田商人今昔物語。すべての道は復興へつづく 後編 (村田町)
2012年2月23日木曜日
お酒の力。みやぎを変える酒が、ここにはある  (村田町)



案内してくれたのは、村田町地域産業推進課の山家孝弘総括主査と村上綾人主事、それから、蔵の保存・啓発活動を行ってきた「むらた再発見『蔵』の会」の佐々木安彦会長です。

町の中心部にある「蔵の町並み」を、時間をかけて歩いてみました。


皆さんはご存じでしたか。

この町並みは、いわゆる「ウナギの寝床」と称される町屋造りで、間口は狭いものの、奥に細長く敷地が延びています。敷地は、通りに面し店舗として使用する「店蔵」から母屋につながります。背後にはいくつかの蔵が立ち並び、特に南側には石の灯籠を配した庭が見られるところもあります。

村田町が所有・管理する「村田商人やましょう記念館」


蔵の町並みを車で素通りするだけでは、決してその威容を把握することはできないのです。


蔵の町並みには約20の店蔵があります。
まず、現在町が管理している「村田商人やましょう記念館」を訪ねました。江戸後期、紅花を商い、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)などで財をなした豪商の末裔が町に寄贈した一連の蔵の建物です。


正面の店蔵は、側壁の「なまこ壁」と呼ばれる浮き出た部分や軒下全体が、白い漆喰(しっくい)で覆われ、修復は終了しています。店先の内壁や続きの母屋の梁(はり)など傷んでいた箇所も、直しが済んでいます。施工に当たっては、耐震性が重視されているとのことでした。

修復された「なまこ壁」


店先の内壁も修復されました

母屋の梁(はり)は、太い木材でつくられています

ところが、店蔵に並ぶ門を開けて先へと足を延ばすと、状況は一変します。母屋に続くいくつもの蔵は、外壁に亀裂が走り、かなりの面積が崩れ落ちていました。内部の損壊もひどいように思えました。現在も震災当時のままでした。


奥に延びる「ウナギの寝床」のいくつもの蔵
壁面のかなりの部分が崩落しています

道路を挟んで斜め向かいの店蔵「やまに」は現在、町の観光案内所になっています。やはり町が所有・管理していますが、店蔵と母屋は何とか応急的に補修したものの、奥の蔵には外壁の倒壊を防ぐネットが張られている状態です。

町はこれら2つの建物群に対して、今年9月まで修復工事を行いましたが、施工の範囲は店蔵と母屋に限定されていました。現在、未着工となっている内蔵は危険なため、見学が制限されています。


観光案内所となっている店蔵「やまに」


壁面は白い漆喰(しっくい)で修復


防護ネットが張られ、見学できない状態

地域産業推進課の村上さんが、現状について次のように言います。


「町内には蔵が100棟以上あり、そのほとんどで壁などにひび割れや崩落が生じ、すでに25棟が解体されています。町では、管理している『やましょう』『やまに』の蔵の一部修復にしか手を付けていませんが、施設の蔵すべてを修復した場合、かなりの費用が見込まれます。町でも厳しい状況なのに、民間の方が自前で直すとなると大変だろうと感じています」


蔵の被害で浮かび上がってくるのは、所有者のほとんどが民間であり、膨大な修復費用が負担となっていることです。

蔵の修復技術はそもそも極めて専門性が高く、現在は職人の数が少ないとされています。そのため、遠方から職人を招けば出張費が加算され、工事費は跳ね上がるといいます。

本格的に復元しようと思えば、蔵の壁4面で4000万円以上は掛かると言われているのです。内部や瓦を直すとなると、それ以上になる。家を新築できる金額です。数10万円を掛けて直したという話は聞きますが、多額のお金が掛かるのなら、そのままにしておこうということになるようです」

こう話すのは、「むらた再発見『蔵』の会」会長の佐々木さんです。

震災直後、蔵の倒壊が隣近所に危険を及ぼしかねないという差し迫った状況で、数多くの持ち主が取り壊しを余儀なくされているのです。

町では、補助などを考えていないのでしょうか。対応には苦慮しているようです。


「町では、震災復興支援策として住宅修繕工事補助金の交付をしていますが、蔵の場合、補助金の制度上、大変難しいです。そのほか、使えそうな復興予算はいろいろと探してみました。ところが、なかなかありません。唯一可能性のあった県の観光施設に対する補助金については、蔵の所有者にお知らせしましたが、適用が難しく、応募には至りませんでした」(地域産業推進課の村上さん)

こうした中でも、朗報がありました。蔵の町並みの通りで中心に位置する「升邸」の「脇蔵」が、ロータリークラブの支援によって修復されたのです。店蔵の左横に建つ脇蔵は昭和初期頃の築造で、震災により一部の壁面が崩落したのでした。店蔵は近年、ひな人形を飾る「むらた町屋雛(ひな)めぐり」(3月)や、「蔵の町むらた布袋(ほてい)まつり」(10月)、地元、県内外の窯元が陶器を販売・展示する「みやぎ村田町蔵の陶器市」(10月)など、町のイベントの時も開放され、使用されてきました。

左手が修復された脇蔵。右手の店蔵も瓦がゆがみ、傾きが生じています


蔵の修復については、ロータリークラブへ「むらた再発見『蔵』の会」が働き掛け、国際、全国、地元のロータリークラブによって修復工事費の336万円が支援されています。

「村田の蔵がどんどん取り壊されて、ゆくゆくは蔵がなくなるという恐れはありました。升邸は1つの観光スポットでしたので、とにかく応急手当をしておきたかったのです。とりあえず、直せる部分だけでも直したかったのです。工事費は限られていて、厳密に言うと、以前の蔵の通りに復元しているわけではありません」(「むらた再発見『蔵』の会」会長の佐々木さん)

蔵の保存・啓発活動を担ってきた「むらた再発見『蔵』の会」の佐々木会長
修復工事は今年9月に完了しています。正面の壁を見ると、白の漆喰(しっくい)部分と、小石を浮き出させる下の「洗い出し」でできている壁は、従来の塗りの方法を略して修復しているそうです。

ここで、あらためて村田と蔵の歴史に簡単に触れてみましょう

村田は江戸後期、江戸のみならず、京都、大坂へ向かう起点となる山形を結ぶ宿場町から、仙台藩が特産品としていた紅花の商品作物の一大集散地として飛躍しました。こうして、紅花を村田はもちろんのこと、大河原、柴田、名取などの農家から買い集め、江戸や上方へ送るという村田商人が誕生し、豪商の権勢が蔵のぜいたくな造りに結実したのです。

主な蔵は、文政期(1818年~1830)以降に建てられたものから、明治・大正期のものまでが混在しています。紅花の商いは明治に入ると衰退しますが、次第に生糸や米、味噌(みそ)、醤油(しょうゆ)、薪炭など新たな商材が生まれ、さらに繁栄を遂げたといいます。

昭和初期の「蔵の町並み」の光景です

ほぼ同じアングルの現在です

蔵の被害実態では特徴的なことがあります。

店蔵は人の出入りに配慮されて設計されていたことから、漆(うるし)塗りの太い木材でできた梁(はり)や柱、一枚板を門や床に使うなどの工夫が施され、全体的に構造体として損壊を逃れたとみられています。ものを収容するにとどまっていた蔵とは、成り立ちも結果も対照的です。各蔵の改修の回数が減り、シロアリが柱をむしばむ状況も被害に拍車を掛けたと推定されています。

蔵についての町の今後の対応ですが、東京の財団による支援がある程度具体化していることや、補助金対象となる国の「重要伝統的建造群保存地区」の指定の方向で検討に入っていることなどが、挙げられています。

「各方面に蔵の支援の要請を継続して行っています。いかに、蔵の良さを理解してもらえるのかが大切だと考えています」(地域産業推進課の山家さん)

現地を歩いてみて、やはり抜本的に全体の蔵の修復が必要であり、震災の復興は歴史的な遺産を後世に残す作業でもあるのだ、と強く感じました。これからのさまざまな広がりに期待を持ちたいと思います。


「一度取り壊してしまうと、二度と同じものはつくれない」(「むらた再発見『蔵』の会」会長の佐々木さん)という言葉が、耳に響きました。


(取材日 平成24年10月31日)