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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年9月12日水曜日

2012年9月12日水曜日11:00
こんにちは、kaiiです。

東日本大震災から1年6カ月が過ぎました。

震災以来、本当に多くの支援が私たちの住む被災地に寄せられました。
その中でも特に頼れる「心の杖」になってくれたものの一つが、「医療支援」でした。
震災から1カ月ほどたった頃から、津波と火災で焼失した地域を多くの医療チームが巡回して医療を提供し、地域の健康を支えてくれました。

その時の医療関係者たちが、夏休みを利用してこの地域をまた訪ねて来てくれています。

7月には、鹿児島県の医療チームのメンバーだった先生が、「心配でどうしているか? その後の状況はどうなっているのか?」と訪ねて来てくれました。
この先生たちが最初に気仙沼に来た頃は、まだ燃え残った瓦礫が道をふさいでいたり、満潮時には海水が道を濡らしていました。
それから1年。
道路はかさ上げされ、満潮になっても海水が路面を洗うことはなくなりました。
瓦礫と呼ばれた生活の欠片はすっかり片付けられ、住宅の跡地には雑草が生え、そこにかつて人々の生活があったことさえ分からなくなった場所もあります。

「どうしても、その後の様子を自分の目で確認したい」という思いでわざわざ鹿児島からやって来た先生の目には、一向に復興が進んでいない現実が映ったようです。


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9月になると、東京都多摩市在住の女性医師が家族連れで訪ねて来てくれました。
震災後の5月に気仙沼の被災地域に入って、巡回医療に取り組んでくれた方です。

この女性医師、小原ゆき子さんは、当時まだ1歳だったお子さんを預けてまでも、「被災地のために」と気仙沼に来てくださいました。そして、2カ月の間に4回も行き来して、医療を提供をしてくれました。

日頃から在宅医療に携わっている診療所の仲間のメーリングリスト(電子メールを使ってグループ内で情報交換をする仕組み)に参加しており、そこで「気仙沼巡回療養支援隊(JRS)」の活動を知り、参加したのだそうです。本当は、すぐには飛び出せない事情があったそうですが、派遣元の病院と交渉して留守の体制を整えての参加でした。

活動明けに東京に戻った時、被災地気仙沼の様子を人に伝えようとしても、それを言葉で表現することはとても難しかったそうです。

あれから1年。
あの時の気仙沼がどのように変わったかを、家族と一緒に感じに来たのだそうです。

先生が知っているのは、1年前の壊れた気仙沼。
その記憶をたどりながら現在の気仙沼を歩くと、景色がまるで変わって見えたことに驚いたそうです。
見るからに物が片付けられていたり、整備されていたり―――
それだけではなく、行き交う人や車、飛び交う言葉、港を出入りする船、いろいろなところから「生活感」が感じられたそうです。


小原医師は、こう話してくださいました。

「もはや“被災地”と呼ぶにはふさわしくない感じを受けました。
私は震災前の気仙沼を知らないのですが、震災前の気仙沼の情景が浮かぶような気がします。気仙沼を実際に訪れることが、自分にとって心の平穏につながる、とも感じました」
「再び同じ地を訪れて、少しずつ前に進んでおられる現状を肌で感じることで、自分自身の中で止まってしまっている時間をまた動かすことができるようです。活動の終了とともに気仙沼に来ることが無くなったこの1年、当時の気仙沼にさまざまな思いを馳せたまま、自分の中で時が止まってしまっていたような感覚でしたから」


「これからも気仙沼に来たいですか?」

そんな質問を投げかけてみると、すぐに

「もちろんです。少しでも時間ができたら真っ先に行きたいと思う地です。
私の家族、皆がそう思っています。だから、またしつこく訪れますよ~」

と笑顔で答えてくれました。


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私たちは、どこか「受ける側」に留まったまま、支援してくれる人たちのことを考える余裕もなく、ただ支援してもらうばかりでした。

でも、支援に来てくれた人々が、まるでその人自身の時間が止まったかのようにその後も被災地に心を寄せ続け、思いを寄せてくれていたと聞いて、心を動かされました。

そして、支援してくれた方々にとって、気仙沼が「行きたい場所」「戻りたい場所」「気になるところ」となっていたことを知り、人と人・人と気仙沼の間に「絆」が生まれ育っていることをとても嬉しく感じました。

1年ぶりに気仙沼を訪ねた小原医師家族


小原医師の滞在中に、「命」について話す機会がありました。

「子どものために、これから何が私たち大人にできるのでしょうか?」

こう尋ねると、震災の時まだ1歳だったお子さんを抱えて東京で被災した一人の母親として、その時の不安を話してくれました。


「被災した時から、さまざまな場面で常に子どもの存在は自分に絡んでいます。東京でともに被災した瞬間。支援に出かけて留守にしていた間。そして、現在取り組んでいる本吉病院後方支援(PCAT)や医師会の業務中においても、常に子どもの存在が頭をよぎります。
 今、目先の事だけではなく、将来の日本の安心安全の確保や防災・医療福祉など、少しでも改善できる事は改善して、子どもたちの時代に備えなくてはならないと切に思います。
 そして、わが子や今の子どもたちにはその意義を理解し感じ取って何らかしらの形で継いでいってほしい、と勝手に期待しています」

そこには、母親としての思いと医師としての思いがありました。



気仙沼での時間の終わり。
どのようなお土産を選びますか? と聞いてみると、「船の模型を」とおっしゃいました。船にもたくさんの種類があって、漁の内容によって型が違うんですよ、と話したら、

「全部集めたら大変なことになりそうですね。子どもは大漁旗が気に入った様子なので大漁旗を買いました。子どもが忘れないようにポストカードなどもたくさん買いました。もちろん、気仙沼の名産のふかひれや海藻製品もたくさん買いました。気仙沼の復興のお手伝いが少しでもできればいいと思っています」


小原先生の旦那さんも、「気仙沼が第2のふるさとです」とまでおっしゃいます。

復旧工事が進められている魚市場を海の向こう側に見渡せる高台の畑で、野菜の収穫など都会ではできない体験をしながら大はしゃぎのお子さんと楽しそうに遊んでいる旦那さん。
その笑顔を見つめながら、気仙沼にご縁を結んでくれた多くの人たちに心から感謝しました。

復旧工事中の気仙沼魚市場

震災から1年6カ月。たくさんの人が気仙沼の地を踏みしめ、たくさんのご縁を気仙沼に結んでくれました。この人たちの全てが復興への険しい道のりを照らしてくれる力となってくれていると、信じることができます。

医療従事者として入ってそのまま気仙沼で働いてくれている多くの若い方々がいます。
その方々が、気仙沼を「発信」し続けてくれています。

震災から1カ月もたつのに「今日もパンしか食べられませんでした」と笑いながら愚痴を話す若い医療従事者がいました。その時の被災者医療を支えてくださった医療チームの姿を思い出します。その皆さんに、今、感謝を伝えられたらと心から思います。

医療・福祉がそばにあること。
それが「心の杖」となっています。
震災の直後も、今も。


(取材日 平成24年9月2日)