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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年3月22日木曜日

2012年3月22日木曜日11:00

春一番が吹きはじめましたね。龍庵です。

 栗原市の岩ヶ崎の町に入る手前に、英語の看板とアメ車が並んでいる工場があります。「SWANKY COOL(スワンキークール)」。中古車販売や自動車整備工場ともひと味違う、外車のカスタマイズ、リストア専門の会社です。このスワンキークールの社長である伊藤俊さんにお会いしてきました。

スワンキークールの工場。
やんちゃ時代を経て、岩ヶ崎の若きリーダー的存在に。
伊藤さんは学生時代までは好き勝手に生きてきて、幼少から終始一貫してやんちゃなヤンキー街道をひた走り、地元の世間様にご迷惑をおかけするような毎日を過ごしていたそうです。栗駒の山懐に抱かれて、“暴れん坊将軍”だったわけですね。

仙台でアメリカ文化の服の仕事に携わってから、「このままではダメだな。真剣に生きて、世の中のために少しでも貢献したい」という気持ちに変わっていって、いきなり車屋さんとして独立。なにせ、小学校の頃からオートバイや車を分解しては組立てる作業を繰り返してきたので、整備工場で修行をする必要がないほど場数を踏んでいたという。なんと言いましょうか、“歩く治外法権のような青春を送られたんですね。
大会で優勝したトロフィーの数々。

最初は三本木と岩ヶ崎の二カ所で開業。三本木の方は大家さんが売却する話しになり、仙台への出店も考えたけど、栗駒の一本に絞ったそうです。「全国からお客さんを呼んで商売させてもらい、栗原にお金を落として貢献したい」という理由から。
外車やキャンピングカーなどのカスタマイズやクラシックカーのリストアという特殊な世界では、「アメリカンフェスティバル」や「ローライダージャパンツアー」といったの全国大会が毎年いくつも開催されています。伊藤さんはそれらの大会でこれまで何度も優勝や準優勝を受賞。その世界で認められた、極められた腕をお持ちとは!年に何度かアメリカのロスに視察に行くワールドワイドな素晴らしいジモティー(地元の人)です。

現在は1960年代のクラシックカーをリストア中。これも大会に出品予定。
工房の中。

アメ車が並ぶ。

 

■バス2台に食料・物資を積みこんで、いざ沿岸部へ。


その伊藤俊さんは昨年の大震災では、沿岸部の支援というカタチで潜在能力を発揮されたようで、当時のことからお聴きしました。

「私も仕事をしている最中に震度7がドカンときた。すぐに停電になり、うちのバスに機材が積んであったのでテレビが見られて、海の悲惨な状況がわかりました。『これは行かないとダメだな・・・』という話になり、うちの従業員やお客さんと協力し合って食料や水、ストーブなどをバスに積めるだけ積みこんだ。いちばん最初は4人で泊りがけで行きました。石巻がひどい状況だ、という情報が入ってきたので、蛇田の小・中学校へ出動した。おにぎりやトン汁、焼き鳥などをその場でつくって提供しました。

その時は、とにかく悲惨な状況でしたね。こんなことってありえるのか、という状況を目の当たりにしました。まだ海水も引いていない校舎の中に、何百人・何千人の人たちが被災されていました。一日の食事が乾パンひとつだけだったり。とにかく栗原に電話して、食料を調達してもらって、それを取りに帰ってまた戻って、物資を配給。間違いなく他の場所も同じような状況になっていたので、できるだけまわりました

バスの中からの風景。
爆発でもしたのか?という状態。

 

■杉浦さんの協力により、スケールアップ。「栗原応援隊」を結成。


そして、すぐに「風の沢」のオーナー杉浦節美さんと杉浦風ノ介さんから連絡があり、協力していただくことになりました。そのおかげで大勢の人たちから支援物資や支援金が集まり、活動の輪が広がっていきました。伊藤さんたちは毎日のように沿岸部へ出動し、杉浦お母さんは毎朝、スタッフみんなのためにおにぎりやおいしい食事を用意してくれて送り出しました。避難所は冷たい床なので、畳が必要だということになり、これも杉浦さんたちが用意。もちろん杉浦お母さんも一緒に何度も出動していただいたということです。協力スタッフも増えたので、「栗原応援隊」をつくろう、ということになり結成されました。

お米、お酒、タバコ、衣類、衛生用品。
栗駒の佐藤畳店から古畳をいただいた。唐桑、気仙沼へ。
少しでも気持ちよく、暖かく過ごせるように。
最初の3カ月間ぐらいは、ほぼ毎日のように沿岸部へ。最初はバスに泊っていたが、1か所に何千人の被災者がおられたので、バス2台の物資は夜9時ごろにはで配給し尽くし、栗原に帰って夜のうちに食料を調達して朝に出ていく、この繰り返し。当初は交通がマヒし、海水も引いていなかったので、まだボランティアも皆無だった。石巻、女川、鮎川、雄勝、気仙沼・・・ビルが基礎ごと流されるような想像を絶する状況の中、支援活動は続きました。現地では3カ月後ぐらいにボランティアが増えてきて、半年後ぐらいには全国から支援物資や食糧が届くようになりました。

やきとり定食の準備をする栗原応援隊のメンバーたち。
震災後、初めて温かい物を口にする人もいた
この日は鹿妻小学校。小学校に1500人避難、付近の住民3000人。最強の布陣と物資で臨んだ。
渡波小学校にて、炊きだし開始。小学校に避難1200人、付近の住民2500人。食料が教室に山のようにあっても2日と持たない。長蛇の列。



 

■『あなたたちがいたから、助けられた』


今でも忘れられいない印象的な出来事を伊藤俊さんはこう語ってくれました。

「おばあさんが小さい袋に入ったビスケットと飴を孫たちにあげていた。貴重なその食べ物を『あなたたちも食べるのないでしょう』と言ってぼくのポケットに入れてくれた。何度も返したんだけど、『これしかないけど、いいから食べて。あなたたちのおかげで助かったから。これをちゃんと考えて、私たちもめげずに必ず復興に向けて頑張るから。あんたたちも頑張ってな』と言っていただいて、すごい泣いてしまったんですけど…

多くの人たちから『ホントにありがとう』、『あなたたちがいたから、助けられた』と言ってもらいました。それで毎回、最後に言ってもらった言葉が『復興して力がついたときには、栗原に必ず遊びに行くから。それまで待っててね』と。私たちも逆に励まされて。もっともっと支援できればいいなと。これまで私が突進しきて、仲間たちには危険な思いもさせてしまったけど、やっぱりやってよかったなと。もう一歩前に進む活力をもらえたと思いますね

爆弾を落とされたような状況で、避難所には海水があり、子供たちがかわいそうと思って行ったら、すごい元気だった。物資提供でものすごく喜んでくれて。どこに行っても元気でした。それで安心した。子供たちは強いんだなと。もしかしたら、カラ元気かもしれないけど、内心は辛かったのかもしれないけど…子供なりに元気出さなきゃと思ったかもしれないけど・・・後で考えさせられましたね」

いつも、気がつけば真っ暗。
連日、沿岸部に通い続けた栗原応援隊のメンバーたち。若き侍。

 

■海の民へ、山の民からの恩返し。


「栗原応援隊」の活動には、多くの若い人たちから賛同のメールや、手紙が寄せられているという。直接なにか協力したい、というあたたかい想いがたくさん届けられている。日本人の心はあたたかい。「今後も継続したいので、その気持ちを忘れないでほしい。人は助け合わないと生きていけないので。そういう気持ちを忘れないで大切にしていきたいと自分も思っています伊藤さんはそう熱く語ってくれました。

取材中にやって来た親友の三浦隆弘さん(左)。保険代理店を経営。
今後の「栗原応援隊」としては、これまで通り足りない物資があれば随時届けて支援していくという。かなり落ち着いてきて、商売を始められたりしているので、海の人たちを栗原に招いて、山の人たちと集い、一緒に復興イベントを行いたいと構想しているところ。前向きな支援として、交流のお祭りのような・・・そういう段階に入っていると伊藤俊さんは感じているようです。

2008年、そう4年前の宮城内陸地震のときには、栗原の山の人たちは、三陸の海の人たちに助けられました。「栗原応援隊」のメンバーたちはその鶴の恩返しをし続けてくれています。

メディアではなにやら大がかりな絆キャンペーンが行われて、
いささか違和感を覚えたり、食傷ぎみの方も多いことでしょう。

伊藤俊さんや杉浦さんたちが始められた「栗原応援隊」では、
海の民と、山の民が、互いに助け合い、
ホントの絆を深めている。
上っ面の表現ではなく、
肝の据わった底流でのコミュニオンがいま起きている。

山の民が 山の幸をとりもどしたように
海の民が 海の幸をとりもどす日まで
ともにつながって 人の幸が生まれるように

原初から 縄文から つながっていることを思い出しながら
あらためて「海と山の絆」を深めていく

同じ時代に この星を旅している魂として・・・

龍庵拝



SWANKY COOL(スワンキークール)
〒989-5301 宮城県栗原市栗駒岩ヶ崎神明103
TELFAX 0228-49-1744
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 (平成24年3月22日)