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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年2月7日火曜日

2012年2月7日火曜日20:31
寒い毎日・・・少し疲れた気持ちを阿弥陀様に聞いていただきたくて、
仏像の大好きなkaiiが訪ねたのは気仙沼市東中才の浄念寺。















昨年11月に落成したばかりの本堂に通ると、

「ありがとうございます」

笑顔でお出迎えいただいたのは副住職の高橋一世さん。

この女性副住職さんの生き方の大好きなkaiiは、
阿弥陀様と一緒に副住職さんにも、この頃疲れていた気持ちを聞いていただきました。

本堂には阿弥陀如来立像を中心に、観世音菩薩立像と勢生菩薩立像が
恭しいお姿でお立ちになっておられました。
阿弥陀様の前に座るとその穏やかなお顔とお姿に心が和んでいきます。





















震災後、人間という存在として
生きていることができることに感謝できるようにもなり
人間の生きる「濁世」に悩んでもいることを聞いていただきました。

「ありがとう」と感謝して生きる事に、どこか難しさを感じるこのごろ
生きることが「辛い」と感じていたのは「私」だけではなかったことを知りました。

震災が残していったものは「濁世」の姿
これに悩み苦しみ、もがく者が多いことを聞きながら
生きること=修行の世界であることを改めて考えました。

問題が生じると、どうしても他者を非難しがちになるけれど
自己の見返りも必要なことを副住職に諭され気が付きました。

全ての根源は自分であり
努力によって変化をもたらすことができることを考えました。
努力なくては変化はないのだと思い考えました。


摩る替えて「問題」を作って苦しんでも、何かが変化することではないのだと思いました。
震災によって現れた、現世の問題の顕在化は「浄化」前の苦しみなのか?とも思えたりします。
便利になれ、贅沢になれた生活に警鐘を御仏が鳴らし
この先の世界を考えることを諭しているようにも感じています。
「ありがとう」が一人歩きして感謝の気持ちもなくなってしまったようで
そんな関係も見直す機会なのかもしれないと思いました。

現世での修行が終わったら、阿弥陀様は極楽浄土へと導いてくださるそうですが
被災地という濁世での修行は、これからが修羅なのかもしれません。

本堂の法然上人の前にひっそりと置かれていた御遺骨。
平成23年3月10日まではお名前があり、人と関わり笑い泣いていた方のはず。
瓦礫の中から見つかり、警察から本堂に預けられているそうですが、
その御骨箱を見つめて思ったのは
生きていることへの「感謝」。

あの状況を逃げ、生き延びた命の「奇跡」と「偶然」。
あの状況を逃げていなければ、
自分も同じことになっていたかも知れないことを思ってみたりしました。
家族の許へも帰れず、自分が誰であったのかさえ誰にも知られず語れず、
そして自分のいのちの時間さえも、自分がここにいることさえも伝えることできない「命」。

こうして生きているから
悩み・語り・笑い・泣けるのだと感じました。

副住職と話ながら、
「生きること」について考え
自分が悩み苦しめることも生きていられるからなのだと気が付きました。

御仏の世界では、人は「子」 として産み出され、泣いて苦しき濁世への修行へ出されて、
「仏」として帰る時は修行の完了を喜び、阿弥陀様が極楽浄土へ導くと聞きましたが
この説は本当なのでしょうか?

副住職にたずねると諸説がありますが
それは自分が考え感じることかも知れないと教えをいただきました。

人間は生まれた時から、自分の「死」を見つめて生きるのですから
それ自体が修行なのかもしれないと感じてみたりします。

人が人を苦しめたり虐げたり貶したり、
本当に必要でないことを人間はするものなのだと思い、
また自分でつくり出すものでもあるのだと思いました。

阿弥陀様とお話をしている間に少しずつ心が落ち着き、
心が落ち着いていくうちに
自分がどう生きていくことが必要かと心が整理されていきました。

「考える」「教えを受ける」「努力する」そのことで「変化」があり
「幸せ」を掴むことができる。
その小さな幸せを掴むためには、
自分を奮い立たせ、自分を信じ、自分を投げず「努力」すること。
なすべきことを尽くした果てに、すべてを任せなさい。
そのように阿弥陀様に導かれたように思います。


「無情」と嘆くなら己が心を「無情」にせず生きること、
「生き難い」なら「生きやすい」環境を作ることに参加することも、
必要だと自分を奮い立たせました。

女性が仏門に帰依し、副住職として「人」を導く立場に立つのですから、
ご苦労も多いことと思います。
でも、そんな人生を選択し生きる一世さんだからこそ、
話していると心穏やかになるのだと感じてきました。

「お寺」=葬儀の場所。
そんな関係性が地域にあるかもしれませんが、
時に疲れた心を休ませに御仏の近くへお話に行くのも
自己を振り返る時間としては必要なのだと、
こんな時間の贅沢に感謝しました。

神様も仏様もキリスト様もお月様もお日様も、
皆信じることから始まるもので、
命の導きなのだと思います。

雪の残る境内を歩きながら
白き雪を踏みしめて残る足跡に人生を思いました。

私には、今この時まで
私が生きたこと、生きていることを感じてくれる人がいる。
自分の人生を考えられる時がある。
自分の人生を語れる言葉がある。
そのことを聞いてくれる人がいる。


1人じゃない。
また、考え悩んだら阿弥陀様に会いに来よう!
そんなことを考えて、心軽く帰りました。

私の人生が「無上」のものにできるのは私だけです。
「求める」だけにならず「与え方」を間違わず
「感謝」。
一世さんが導いてくださった教えに感謝しています。

















合掌

(平成24年2月7日)