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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2012年2月20日月曜日

2012年2月20日月曜日23:00
こんにちは。栗原より、龍庵です。

Cafe de Monk(カフェ・デ・モンク)」という移動喫茶をご存知ですか?

お坊さんたちが軽トラックに喫茶店の道具一式を詰め込んで、被災地を巡る「移動傾聴喫茶」。おいしいコーヒーを無料で提供しながら、被災者の話を聴くなごみの空間を提供しています。その前代未聞のプロジェクトを立ち上げたのが、築館にある通大寺の金田諦應住職。

さまざまな被災地へ。オープンカフェ「Cafe de Monk(カフェ・デ・モンク)」
ユニークな活動内容をお聞きしたいと電話を入れたら「今夜でもいいよ」と快諾いただいて、早めの夕食をかっこんで、車を飛ばした。

大きなお寺で、純和風の料亭のような玄関で奥様にお出迎えいただき、廊下を通って、一室に通されました。えっ!?アコースティックギターがずらりと20台ぐらい並んでいる。大きなスピーカーやミキサーなどのオーディオ機器も揃っている。奥のソファのコーナーには薪ストーブ。とてもお寺の中とは思えない、ミュージシャンのスタジオのような空間。(これは大人の隠れ家だな・・・)

ごあいさつももそこそこに、「カフェ・デ・モンク」が生まれた経緯をお伺いすると、諦應(たいおう)和尚は気さくな感じで、味のある自然体で話しはじめました。

「カフェ・デ・モンク」のときには胸にプレート。愛称は「ガンジー金田」。
「私たちはお坊さんだから、震災との最初の関わりは栗原市の火葬場でのボランティアだったんですよ。被災地すべての機能が麻痺して、火葬ができない。三陸沿岸から多くの亡くなった方々の遺体が来るというので、読経ボランティアを申し出て、市当局と交渉。その許可が下りたのが3月19日。動けるお坊さんに声をかけたけど、ガソリンがない。それでも数名集まってくれた。

あれはきつかったな・・・現地はもっと大変だと思うけど、ホントに現実を見たんだな。お坊さんたちはみんな一生懸命にやりましたよ。1日に6体〜7体が受入の限度でしたよ。通常の業務もしないといけないし。最初に来た遺体は2人の小学生。仲良しだった2人を、せめて一緒に荼毘にふしたいというご両親の願い。若いお坊さんたちは震えていました。身を震わせ、声をつまらせながらの読経。もうね、お坊さんたちもフラフラになりながらお経を上げ続けましたよ。
取材に来ていた若い新聞記者はシャッターを押せないでいた。“それはわかる。でもな、お前がこの現実を伝えないと誰が伝えられるんだ。シャッターを押せ!”と。もちろんご遺族にも話しを通した。涙を流しながら震える手でその記者はシャッターを切った。その写真は全世界に流れたんだよ。石巻、東松島、名取、気仙沼、南三陸・・・四十九日までに約200人の読経をしました」

穏やかで気持ちのこもった言葉ながら、その内容にのっけからカウンターパンチを食らった。

四十九日の鎮魂合同行脚。

震災から四十九日にあたる4月28日。節目でもあるので、犠牲になった方々への鎮魂をこめて、南三陸町へ合同行脚したという。お坊さんと牧師の12名。諦應和尚は灯りを持って歩いた。“命の灯り”として・・・

お経と賛美歌が交錯しながら響き渡った。瓦礫の山へ、遺体が沈む海へ。

「自衛隊員も大勢いて、黙々と遺体捜索をしていた。なんとか四十九日までに探し出したい、というのが伝わってきましたよ。この日、6名の遺体が見つかった。しまいには涙でお経が読めなくなった・・・これをやりながら自問が湧き上がってきたのよ。“宗教ってなんなんだ!現実ってなんなんだ!”って。神も仏もなくなったような状態だったからね。あの瓦礫を見てさ。“神ならびに仏の成せる技とはこんなものか!”と。
そう思って歩いていたら、山桜が咲いているんだ。こっちを見ると鮮やかにパッと咲き誇り、こっちを見ると瓦礫の山。おい、ちょっと待てよ。どっちも神様の力だし、どっちも仏様の力。咲かせるのも神の力、壊すのも神の力。その前に立ったわれわれ宗教者はどのような立ち位置で震災に向かうべきであろうか・・・!?

諦應和尚が行脚した南三陸町に、じつはぼくもその数日後に車で行っていました。それはもう想像を絶する風景。テレビという小さな箱の中で見るのとは大違い。知っているはずの街は跡形もなく消え去り、言葉もありませんでした。
諦應和尚はあの地を歩き、全身全霊で感じ取り、自らの原点を問いはじめて、シンクロニシティの連鎖へと物語は続きます。

■医者が「命」なら、こっちは「心」だ!

四十九日で供養関係はいったん中断して、僧衣を脱ぎ、被災地支援をスタート。最初に向かったのは孤立集落「歌津馬場・中山」にうどんの炊き出しへ。

「そこの責任者にあいさつに行くと、“国境なき医師団”の若い医師が任務を終えて帰るというところに出くわした。その責任者は『お前たちはじいさん、ばあさんたちを見捨てて、どごさ行ぐんだ!俺たちを見殺しにすんのが!帰るな!誰がこの命を守るんだ!』と小1時間も続いて、最後には泣き出した。助かった命をお医者さんに託して、必死なわけですよ。
じゃあ、宗教者はどのような立ち位置で向かったらいいのだろう・・・?・・・医者が“命”なら、こっちは“心”だ!!と、きたわけよ

情感豊かに話される諦應和尚に、こちらは耳がダンボと化し、奥様が入れてくれたお茶を飲むのも忘れて聞き入りました。

■3月11日の夜、異常なほど星空がきれいだった。

2011年3月11日、14時46分。栗原市は震度7以上。あの揺れであれば、海岸では20mの津波になことはすぐに予想できたという。沿岸部の地形を知っているから、大惨事になることは直感できた。パチンとテレビが切れ、停電。古いラジオに電池を入れて、チャンネルを合わせた途端に、「仙台市荒浜海岸に200300体の死体」の情報が流れた。

「あー、もうダメだぁ!ホントにね、震えながら泣きましたよ。万人単位で亡くなるなと。現地は凄いことになっているだろうと。心がね、あっちに行っちゃった。
その夜は異常なほど夜空がきれいだった。停電で、漆黒の闇。車の騒音もない、まったくの静寂。夜空を見上げると、満天の星々。ひとつひとつがはっきりときらめいていた。月輪から光が放射されていた。美しい・・・俺は生きている。海に漂う父母や兄弟、子供、友人にも間違いなく美しい月の光や星の輝きが降り注いでいるはず。三陸には無数の遺体が上がっている。この自然の、この宇宙の、なんと残酷で、悲しく、美しいことか。このときに、宇宙まで抜けていく感覚というのかな、命がひとつなった感覚を味わった。その感覚は一回味わったことがあって、以前にインドのブッダガヤを訪れた時。同じような星空だった。あのときにそっくりだなと」
  
その神秘体験は、悟りの一瞥と言われるものでしょうか。そして、諦應和尚は宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の最後のシーンを思い出したという。その物語は、「熊撃ち小十郎」と熊の話しで、小十郎は家族を養うために熊を撃つ。熊と会話をするようになり、最期は狙っていた熊に逆に殺されてしまう。その死体は山の頂に置かれ、まわりを熊たちが囲んでひれ伏している。天空には無数の星々。人間と熊の、人間と自然の、親密であたたかいけれども悲しい関係が描かれている。さらにそれを包み込んでいる大宇宙。賢治の視線ははるか彼方からこの地上に注がれている。この物語がオーバーラップしたという。

そして、その不思議な体験は一本の糸のようにつながって、炊き出しの「医者が命なら、こっちは心」の再発見へ。新しい活動へと結実してゆく・・・

(つづく↓)
「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶。お坊さんが文句を聴きますよ。(2)


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